学者やインテリ(知識人)ではなく、権力をになう政治家や高級な役人こそが、低い価値づけや批判をされることがいるのだと個人的には見なしたい

 学者やインテリ(知識人)はだめだ。じっさいの政治のことをわかっていない。じっさいの政治のことがわかっていて、それを動かせる政治家のほうがすぐれている。ツイッターのツイートではこう言われていたが、これには疑問を投げかけざるをえない。

 学者やインテリ(知識人)と政治家の二つに分けて、学者やインテリ(知識人)に低い価値づけを与える。それは、学者やインテリ(知識人)を悪玉化することによって、政治家や高級な役人のでたらめやごまかしを煙に巻くことになりかねない。それには待ったをかけたい。

 学者やインテリ(知識人)について低い価値づけをするのはなりたちづらい。この低い価値づけがなりたつのであれば、学者やインテリ(知識人)はみんな例外なく同じ意見をもっているということになる。そうではなくて色々な意見をもつ人がいるのなら、範ちゅう(集合)と価値を分けて見られる。

 学者やインテリ(知識人)といった人についてではなく、言っていることの内容(案)を具体として見るほうが建設的だ。議論と人格を分けることがいる。議論である主張や案や仮説や判断と、人格とは別だ。議論について、適した形に分けるようにすることがいる。この部分のここはおかしいとしたほうが、建設的な話になりやすい。

 いまの日本の社会では、一つには、税金を使うやり方が、非効率になっていて、不公平になっているのがある。負担と給付が人によって不つり合いになっている。かなり単純化した分け方ではあるが、税金の恩恵を受けるほうと、税金を支払うほうとで、不当な両極化がおきているのだ。

 単純化した分け方でいえば、政治家や高級な役人は、税金の恩恵を受けるほうだ。権力をになう政治家や高級な役人は、これまでに、税金を使うやり方を効率よくしたり、公平にしたりすることができてこなかった。国の財政の借金はぼう大な額になっていて、増えつづけている。

 国の財政の借金はぼう大な額になっていて増えつづけているが、これについては楽観する見かたもあるから、不安を言うことによっておどしのように響くところはあるかもしれない。もし楽観することができるのなら、積極的にお金をばらまくのがよいということになる。それではまずいというのもあるので、国の財政に問題があるかないかの二つがあるなかで、悲観としても見られる。国の財政に、問題の内因性がある(問題がある)ということだ。

 問題や危機があるとできるとすると、学者やインテリ(知識人)ということで、ひとくくりにして、悪玉化している場合ではない。権力をになう政治家や高級な役人は、これからの日本の社会をどうするかということについての、有効で意味のある重要な課題(アジェンダ)を定めたり、複数の選択肢を示したりできていない。それを直視するべきではないだろうか。このままでは、税金を使うやり方が改まる見こみは立たず、不当な両極化がおきつづけてしまう。

 参照文献 『二極化どうする日本』柴栗定夢(しばぐりさだむ) 『効率と公平を問う』小塩隆士 『武器としての決断思考』瀧本哲史(たきもとてつふみ) 『逆説の法則』西成活裕 『論破力』西村博之(ひろゆき) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一