重要なことなのだから、ワイルドにやったりキャンペーンをはったりするのではなくて、より(さらに)慎重に進めて行くことがいるものだろう

 これまでは慎重にやってきた。だからこれからはワイルドに憲法の審査を進めて行かないとならない。自由民主党の幹事長代行はそう言っている。

 新しい令和の時代になったので、憲法の改正をなすためのキャンペーンを行なって行きたいとのことだ。

 憲法というのは、ワイルドな権力をしばるものなのだから、それを変えるかどうかの議論では、ワイルドではなくてマイルドにやってもらいたいものだ。

 憲法の改正をしようとするさいに、それをおし進めるために、ワイルドにやったりキャンペーンをしたりするのは、力によるものであって、正しさがないがしろになりかねない。力によるのではなく、できるだけ慎重な手つづきをふむことによる適正さが大切だ。

 憲法を改正をするかどうかの話し合いをしたり、それを進めることをしたりするのはよいとしても、そのさいにとられる正しさ(憲法を改正する正しさ)というのは、そのつど調整されることがいるものだ。

 正しさをそのつど調整するようにして、正しさを批判として見るようにする。どうしてそう言えるのかや、本当にそれは正しいことなのかを、論拠(根拠)や主張や、現実との整合性において、確かめるようにする。

 正しさを調整して、批判をもって見ることがいるのは、憲法を改正することが、実体として正しいとは決められないからだ。実体として正しいかどうかは、一〇〇パーセントということはないし、相対的なものだ。どれだけ慎重でかつ十分な手つづきをふめるかどうかによる。

 憲法の改正をするのが正しいということで、純粋動機主義で加速度をもってつっ走らないようにすることがいる。加速度をもってつっ走ってしまうと、色々なところに穴が空いているのを見落としてしまう。穴が空いているのを見落とさないようにするには、より上位(メタ)の視点をもつことが役に立つ。

 せっかく憲法の改正の話し合いをしたり、それを進めたりするのであれば、急いでやるのではなくて、科学によるゆとりをもって、開かれた中でさまざまな立ち場と民主的で対等なやり取りをくり返し行なう。論点を適した形の大きさに分けるようにして、時間や労力をかけて、少しずつ細かく歩幅を刻みながら進めて行ったほうが、あとでまずいことがおきるのを避けやすい。

 参照文献 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 『論理的思考のコアスキル』波頭亮(はとうりょう) 『逆説の法則』西成活裕 『正しさとは何か』高田明典 『細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!』細野真宏 『メタ思考トレーニング』細谷功(ほそやいさお) 『靖国史観』小島毅