世界はだんだんとよくなって行っているのかはいぶかしい(悪くなっているとは必ずしも言えないかもしれないが)

 何だかんだ言っても、世界や日本の国はよくなって行っている。科学技術がだんだんと発達してきているのが大きい。そう言われているのがあった。

 これは史観(歴史観)でいうと、右肩上がりの史観だ。右肩上がりでよくなってきていて、これから右肩上がりでよくなって行くというものだ。

 これまでの科学技術の進歩によって、世の中がよくなっているところはある。科学技術がのぞましい形で発展して行くことで、今後においてよりいっそうよくなることは、楽観論をとれるとすれば見こめる。

 右肩上がりの史観とは逆に、右肩下がりの史観というのではないが、ひとつ疑問なのは、科学技術が発達しているのにもかかわらず、なぜわれわれの暮らしはみながもれなく楽にならないのだろうか。そこが腑に落ちない点だ。

 水準の低い疑問ではあるかもしれない。そのうえで、たとえば医療をとってみると、科学技術の向上によって医療は進歩しているが、それにもかかわらず、治る病気とは別に、治らない病気は多くある。現代の医療に見放されてしまう人は少なくはない。高額な医療費がかかる病気もある。

 国の財政では、社会保障費などを含めてお金がかかるので、国の赤字は増えつづけている。これは科学技術の発展とは直接にはかかわらないことだが、科学技術の発展で世の中はよくなっていると言っておきながら、それとともに、国の財政の赤字が増えつづけていて余裕がないとか、社会保障の費用を削らなければならないとかというのは、おかしいことのように響く。

 科学技術の話とはずれてしまうが、われわれの暮らしはみながもれなく楽にならないのは、戦後のしばらくのあいだにできていた、大ばんぶるまいの利益政治がとれなくなったためなのが大きいのだろう。戦後のしばらくのときとはちがい、どんぶり勘定の大ばんぶるまいの利益政治によって国民に利益を与えられづらい。どこにどう税金を使うのかの優先順位をしっかりとつけて、税金の使い道を見直す。いい加減ではない、公平で有効な利益政治にすることが必要になってきている。

 いまの政権に近い経済学者が言うことに見られるように、市場原理をよしとする新自由主義(ネオリベラリズム)や新保守主義がいまの政権では主としてとられている。すみずみにまで温かい風を吹かせると言いつつ、政権の本音としては、格差があることをよしとしているのだ。個人ががんばっても暮らしがよくならないことが、自己責任とされがちだ。

 科学技術が発達して行くことで、世の中はだんだんとよくなっているということには、その反証(否定)となる例が色々とあげられる。世の中がよくなってきていて、これからさらにそうなるというのであれば、その反証となるような、いま生きるのが苦しい人や、いま生きる希望が持てない人がいてはいけないだろう。厳密に言えばそう言える。

 いくら科学技術が発展しようとも、医療では治らない病気が少なくないのに見られるように、何とかならないものはいぜんとして何とかならないというのがある。

 科学技術の不確かさや悪いところとしては、たとえば原子力発電の危険さや、核兵器の危険さがある。科学技術はものごとを無機として物象化するものなので、全体論による有機のとらえかたができづらい。機械論によって、部分をばらばらにすることで、人間(労働者)が物や部品のようにあつかわれる。合わない部品は価値がないものだとされて、捨て置かれる。生きた自然を壊すことをいとわない。

 科学技術による機械論は、ものごとを質ではなく量によって置き換えるものだ。質感(クオリア)がないがしろになってしまう。量に置き換えることができない質感などは、ないことにされてしまうのだ。ないことにされてしまう質感は、全体論や生気論による有機のものだが、それは弱いものであるために、現実においては負けやすい。分かりやすい量にできる機械論のほうが現実においては勝ることになる。

 科学技術は、自然や生きた人間を支配して、外の自然と内の自然を飼い慣らす。内の自然というのは、人間の内にあるものだ。外の自然や内の自然が技術で支配されることによって、意味というものが失われてしまう。ひどく空虚になる。それで虚無主義(ニヒリズム)がはびこるようになって、意味を得ようとしてふたたび神話や魔術がとられるようになる。再魔術化だ。国家主義民族主義集団主義の神話や、人種や民族を差別することがおきてきている。

 科学技術が発展することや、世の中がよくなっているかどうかは、それの益や確証(肯定)となるところがあることはたしかだ。そのいっぽうで、反証(否定)となるところがあるのは無視できないところだ。万能に近い効力感とその逆の無力感や、正と反があって、それらが矛盾して混在しているのが現実なのではないだろうか。線のように前に進んで行く近代の大きな物語は成り立ちづらく、小さな物語にならざるをえない。

 参照文献 『歴史という教養』片山杜秀 『民主主義という不思議な仕組み』佐々木毅(たけし) 『啓蒙の弁証法テオドール・アドルノ マックス・ホルクハイマー 徳永恂(まこと)訳 『現代思想を読む事典』今村仁司