宗教の、仏教を専攻していた研究者が、自殺してしまったという。このことを受けて、こう言われていた。
もしこの研究者が自殺せずに生きつづけていれば、たとえどんなにきびしい生の条件であっても仏教がその役に立つことをあかし立てできた。そうではなくて、研究者は、自分の身をもって仏教が役に立たないことをあかし立ててしまった。ツイッターのツイートでそう言われていた。
この研究者は、仏教と関わっていたということだが、正しくは文献学にたずさわっていたのだという。
地位などに恵まれないこともあって、研究者は自殺してしまったと見られるが、この研究者が自殺してしまったのや、その逆に生きつづけることが、仏教が役に立つこととそこまで結びつくものだろうか。
あくまでも、この研究者が生きるうえでは、仏教がそれを支える役には立たなかった(力にはならなかった)かもしれないことはありえるが、仏教そのものが役に立たないことを一般として示すのだとは言えそうにない。
研究者が自殺してしまったことの要因というのはさまざまにあるものであって、たんに仏教の信仰と関わるだけだとは見なしづらい。自殺してしまったことの要因はさまざまに見られるのだから、たんに仏教の信仰ということだけに結びつけるのは、それがまちがっているとは言えないものの、必ずしも適してはいないことだ。
仏教などの宗教をすごく信じているのであれば、それがその人の生きる支えや力になるかもしれない。たとえきびしい生の状況であったとしても、それにめげないで生きて行くことができる。その人が生きようとしつづけることの十分条件に近いものとして宗教の信仰がはたらく。
ちがう論点としては、いまの日本の社会がどうかというのがある。それぞれの人が置かれているところのちがいによってさまざまではあるが、明るいきざしが見えづらく、不安をかかえざるをえないことがある。うまく行かなくても自己責任だというふうになっているきらいがある。
仏教では小乗仏教と大乗仏教があるというが、これを個人と社会というふうに見られるとすると、その二つの視点をとることができる。たとえどんなにきびしい生の状況の中でも、宗教の信仰をもっていれば生きつづけて行けるというのは、個人のことであって、社会のことはまた別だ。個人をとり巻くきびしい生の状況というのを改めるために、個人の自己責任とはされずに、社会の中のおかしいところをそのままにせずに、批判が投げかけられることがいる。
参照文献 『正義ってなんだろう 一憲法学者の人生論ノート』榎原猛 『中高生のための憲法教室』伊藤真 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之 『できる大人はこう考える』高瀬淳一