自虐史観や自虐思想という物語と、自虐史観や自虐思想はまちがっているとか洗脳だという物語

 戦争を経験した人たちがいる。その人たちの中で、反戦をよしとするのがある。戦争において日本は国として自他に悪いことをしたことから、二度と同じあやまちをくり返してはならない。日本が国として悪いことをしたという歴史をもちつづける。

 あくまでも戦争を経験した人たちの一部にすぎないのはあるかもしれないが、戦争において日本は国として悪いことをしたというのを、自虐史観や自虐思想と決めつけてしまってよいものだろうか。これらの人たちは、自虐史観や自虐思想をもっていて、それを乗り越えられなかったということが、いまから見れば言えるのかは定かとは言いがたい。

 おきたことというのは、時間が経つうちに風化して行ってしまう。戦争のさいにおきたことは、日本の国としてはできるだけ国民に忘れてもらいたかったのがあったので、たんに時間が経って風化するというのだけではなくて、それをおし進めるような風化させる動きがとられた。失敗情報は隠ぺいされやすいのだ。日本は失敗を評価する文化にとぼしく、隠ぺい体質がある。

 おきたできごとは時間とともに忘れられやすい。まだ生々しいうちは線だったものが、その線がとぎれて行って点になって行く。この線と点というのは、意識による言語のものと、意識の下にある非言語のものとがある。おきたできごとを語るのは、意識の下にある非言語のものが、時間が経つことで線から点になったのを、意識して点をつなぎ合わせて線にして物語るということだ。

 どういう点をひろい出すかや、捨て去るかによって、それがつなぎ合わされた線として物語られることになる。まとまった一つのものにするためには、取捨選択や編集がなされることになるので、偏ったものにならざるをえない。

 日本が悪いことをしたという自虐史観や自虐思想はまちがっているというのもまた、一つの物語と言えるものだ。まだ戦争がおきてまもないころには、自虐史観や自虐思想というものはなかった。そういった言いあらわし方はなかった。それはアメリカに日本人が洗脳されていたからだとは言い切れず、おきたできごとである戦争の具体の体験と整合するのがあったためだろう。それぞれにおいてさまざまにちがいはあったのはあるだろうが。

 自虐史観や自虐思想というのは物語だが、自虐史観や自虐思想はまちがっているというのもまた物語だ。物語であるからには、絶対というわけには行かず、相対化することができるものだ。最高価値というのではなくて、価値の多神教となる。神々の争いといったことになる。

 色々あるということで終わりにしてしまっては、悪しき相対主義となってしまうかもしれない。それについては、まだ生々しかったときは線だったものが、とぎれて点になって、その点をひろい出したり捨てたりして線を物語っていることに目を向けたい。時間が経つことで風化してしまったのがあるし、日本は国として国民にいやなことを忘れさせようとして風化をおし進めたのがある。日本およびアメリカが国として風化の動きをしたこともまた風化している。二重に抹消や忘却がされているのだ。

 いまの日本の国にたとえ都合が悪いことであったとしても、それから目をそむけるのではなくて、うしろ(過去)をふり返る中において、さまざまにある大中小の点(痕跡)を、ていねいに時間をかけて見るようにして救い出して行かないとならない。

 参照文献 『使える!「国語」の考え方』橋本陽介 『物語について』W・J・T・ミッチェル 海老根宏他訳 『発想の論理』中山正和 『現代思想の断層』徳永恂(まこと) 『歴史という教養』片山杜秀 『思想の星座』今村仁司 『図解雑学 失敗学』畑村洋太郎 『夢を実現する数学的思考のすべて』苫米地英人