コンビニエンスストアが二四時間営業しているのは、必ずしも必要なことではないかもしれない(自明視はできない)

 コンビニエンスストアは二四時間営業をしている。そのことでコンビニのオーナーに重い負担がかかっていて、限界に来ているという。これを見直すことに、行政や省庁が介入するとも言われている。

 コンビニの二四時間営業を改めることに政治が介入するのは、資本主義ではなくて社会主義ではないかという批判がツイッターのツイートで投げかけられていた。

 資本主義と社会主義ということでは、かつては資本主義への批判として社会主義があったが、それがなくなってしまったために、資本主義で世界がおおわれている。資本主義への批判が投げかけられづらくなっていることで、資本主義のおかしさがおきてきているのではないか。

 資本主義の市場原理は、格差を生む。格差というのよりもさらに進んで、階級社会に日本はなっているとも言われている。中間がなくなって、両極化しているのだ。働いても暮らしがよくならないのは自己責任だとされがちだ。自分の暮らしがいっこうによくならないで、どうして自分の人生に希望が持てるというのだろうか。それにくわえて、将来はどうなるのかといった、先のことの不安は小さくない。

 コンビニが二四時間営業していることで、コンビニのオーナーに重い負担がかかってしまっているのは、コンビニのオーナーが共有地の悲劇となっているためだろう。オーナーが共有地の悲劇になっているのに、それが改まらないのであれば、日本の社会は人に冷たいということになる。そのままで放っておいてよいとは言えそうにない。

 日本の労働のあり方は、高命令と低賃金と低福祉になっているという。これを改めるようにして、中命令と中賃金と中福祉にできればよい。高命令と低賃金と低福祉のままでは、労働者などにおいて犠牲や搾取がとられつづけることになって、人々が安心して暮らせるようにはならない。

 労働者が仕事をするさいに、その人がこなせる仕事の量を超えたものではまずい。こなせる仕事の量を超えたままでいれば、いずれパンクしてしまう。多すぎもせず、少なすぎもせず、ちょうどよいくらいのほどほどで、ちょっとゆとりや間があいているくらいが適している。ゆとりや間がなくて、限界ぎりぎりというのだと、その人にとってもよくないし、組織や社会にとってもよいことだとは言えそうにない。

 コンビニのオーナーに負担が重くのしかかっているのは、労働ということが、自由をとれないで、他に隷属させられるものだというのがかいま見られる。会社の利潤を極大させるのや、生産至上主義の中における労働について言えることだ。かつてナチス・ドイツは、強制収容所において、労働は自由にするという文言を掲げていたというが、現実にはその逆である。

 労働はよいことだというのも言えるから、人によってさまざまに見られるのはあるだろうが、近代において、労働に大きな価値が置かれすぎているのは、近代より以前(前近代)とのちがいだとされている。近代と近代より以前では、世界像のちがいがあって、近代では無機的な機械論による。自然を壊すのをいとわない。近代より以前では有機的で循環的な全体論の自然の見なし方がおもにとられていた。

 参照文献 『日本の「労働」はなぜ違法がまかり通るのか?』今野晴貴 『ここがおかしい日本の社会保障山田昌弘 『逆説の法則』西成活裕 『家族はなぜうまくいかないのか 論理的思考で考える』中島隆信 『現代思想を読む事典』今村仁司