いま足りていなくて不十分になっているのは、いまの首相による政権やいまの与党にたいする批判や反証(否定)なのではないだろうか(政権は反証のがれをしつづけている)

 朝日新聞は、政権の批判ばかりをしている。ツイッターのツイートでそう言われていた。これについては、まず第一に、政権の言っていることをうのみにせずに、たえず批判として受けとることはいる。第二に、政権の批判ばかりをしているのであれば、それはそれで一貫性があるということもなりたつ。

 批判ばかりをするというのは、反対勢力(オポジション)としてのつとめだというのがある。その逆に、賛同ばかりしているのは危ない。賛同ばかりしていると、意見をもちづらい。政権のことをほめておだててといったことになりやすい。

 批判ばかりすることのうら返しとして、賛同ばかりするのがある。賛同ばかりするのは、肯定ばかりするということだ。これは確証の認知のゆがみとなる。肯定性の認知のゆがみだ。これを改めるためには、批判をするようにしないとならない。

 いまの首相による政権は正しいとか、よいのだとするのは、確証となるものだが、それにたいして反証(否定)を投げかけることはいることだ。この反証が有効になっていなくて、政権は反証のがればかりしている。国会では、ご飯論法や信号無視話法やすれちがい答弁を行なっている。

 いまの首相による政権にたいして、批判を投げかけるのが、朝日新聞などの反対勢力(オポジション)だが、その反対勢力にたいする批判はあってよいことだ。それはあってよいことではあるものの、朝日新聞などの反対勢力はまちがっている、ということもまた、反証されなければならない。朝日新聞などの反対勢力は、政権にたいして批判ばかりしていてまちがっている、というのは、必ずしも正しいとは言えず、そこには確証(肯定)の認知の歪みがはたらいている見こみが低くはない。

 いまの首相による政権に、反対勢力が批判を投げかけるといったところで、いまの政権にとって代わるめぼしい者はいないではないか、ということも言えるだろう。たしかに、いまの政権やいまの与党にとって代わるめぼしい者は見あたらないかもしれない。

 代えが見あたらないというのは、それはそれとして、それがあるからといって、いまの政権が行なっていることが正しいということには必ずしもならない。いまの政権が行なっていることや目ざしていることにたいして、批判を投げかけることはいることだ。いまの政権がしていることや目ざしていることの反対(反証)こそが、正しいことなのだというのは、さまざまなことにおいて十分にありえることなのだ。いかなる考え方の枠組み(フレームワーク)であっても、それが絶対にまちがいなく誰にとってもいつでも正しいということはありえづらい。

 いまの政権やいまの与党のほかに、めぼしい代えとなる者がいないというのは、たしかにそれはあるものの、見かたをずらして見ることができる。選挙がもっと有効に機能するようにしたり、ふさわしい人が政治家として選ばれるようにしたりすることがいる。いま選ばれていて、いま力を持っている政治家は、自分たちに不利になるような改善をしようとはしたがらない。

 既得権を手放したくないのはあるだろうが、そこをあえて、いま選ばれていて、いま力を持っている政治家が不利になるようなことでも、これからのためにいる改善をしてほしい。これをうら返せば、いま選ばれていて、いま力を持っている政治家は、必ずしもふさわしい地位や職についているとは言えないのだというのがある。古い画一の空気がたまっていて、部屋の窓が開いていず、新しい多様な空気(人材)が入ってきづらくなっているのではないだろうか。

 参照文献 『「野党」論』吉田徹 『超常現象をなぜ信じるのか』菊池聡 『超常現象の心理学』菊池聡世襲議員 構造と問題点』稲井田茂 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅