極左という価値づけや意味づけには批判を投げかけられる

 歴史学憲法学や考古学は、極左の分野だ。それらにたずさわる学者は極左集団だ。テレビ番組の出演者はそう言っていた。この発言では、極左という分類がとられている。極左という分類によって価値づけや意味づけがされていて、一般化(敷えん)されているのだ。

 とくに注意をしたいのは、人にたいして分類を当てはめることだ。ある分野にたずさわる学者を、極左という分類に当てはめるのは、ある人たちを一つの分類に押しこめることになる。分類という箱の中に入れてしまう。

 極左だというふうに分類するのは、色めがねによって価値づけや意味づけをしているもので、事実そのものだとは言えそうにない。分類というのは解釈によるものなので、先入見や予断や物語によるものなのだ。先入見や予断をぬきにした見なし方ではない。

 とくに人にたいして極左などという分類を当てはめることには気をつけたいものだ。便利であるだけに、危なさや誤りがつきまとう。単純な記号の当てはめは、複雑な現実をとらえ損ないやすい。せめて、さしさわりのないように、あまり人に向けては使わないようにしたり、相対化したりするようにしたい。

 たとえ一つの分類を用いるにしても、それはあくまでも集合や範ちゅうというのにすぎない。その集合や範ちゅうの中には、さまざまな価値をもつものがあるのだ。集合や範ちゅうというのは、外延であって、量だ。価値というのは内包で、質である。多くの量があって、質はさまざまなのが、現実なのではないだろうか。大きなくくりに範ちゅう化しすぎるのではなく、小さく個別化することもまた大切だ。

 価値は客観ではなく主観であることから、自由な学問の営みが成り立つものだろう。もし価値が客観ということだと、極左は負の価値をもつということで、学問の自由がとれなくなりかねない。そうではなくて、価値はあくまでも主観で相対のものであることから、価値を基礎づけできず、それぞれがよしとするような活動があるていど自由に許される。客観で極左は負の価値をもつとはならないからこそ、それを疑うことができるのだし、教条(ドグマ)化や権威化におちいるのを避けやすくなるのではないだろうか。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『丸谷才一 追悼総特集 KAWADE 夢ムック』河出書房 『日本語の二一世紀のために』丸谷才一 山崎正和 『自己変革の心理学 論理療法入門』伊藤順康 『科学哲学者 柏木達彦の多忙な夏 科学ってホントはすっごくソフトなんだ、の巻』冨田恭彦 『現代哲学事典』山崎正一 市川浩編 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香