元号の記号表現(シニフィアン)

 新しい元号は令和に決まったという。新しい元号には令の字が入っているが、これは命令を連想させるという声があがっている。

 自由民主党石破茂氏は、新しい元号について違和感があるとしている。どういう意味なのかを国民が納得できるように説明しないとならないと言っている。これには個人的には同感だ。

 国の文脈において令の字を用いると、上から下に命令するということを思いおこさせるのはぬぐい切れそうにはない。

 新しい元号として決まったことに、いちいちけちをつけるのはどうなのかという声はあるかもしれない。よい元号だというふうに受けとる人は少なからずいるだろうし、それがまちがっているというのではない。

 どう受けとるのかはそれぞれの人の自由だということで個人的に言わせてもらうと、令和ではないほかの案のほうがよかったということもあるのではないだろうか。それをいまさらいってもしようがないというのはあるが、ほかの案と比較ができれば、案のよし悪しを見られるから、そこが気になる点だ。

 もうちょっと無難でよい案がほかにあったのではないかという気もするのだが、多くの人が問題にしないのであれば、そこはむし返してもあまり意味があることではないかもしれない。

 元号というのは、ひと区切りの時代を名づけるものだが、その記号内容(シニフィエ)と記号表現(シニフィアン)との結びつきの必然性はなく、恣意(気まま)なものだ。グローバル化して、ウェブなどの情報の技術が発達したいまの時代において、記号内容と記号表現の結びつきの恣意性(偶然性)が、昔と比べて浮きぼりになりやすいのはあるだろう。