とりわけいまの政権にたいする反対勢力(オポジション)となる国民や、憎悪表現(ヘイトスピーチ)の主張やデモにたいして警察が行なうことにまつわる、ぬぐい切ることができない違和感

 憎悪表現(ヘイトスピート)のデモや主張を行なうのをうながす。警察は、憎悪表現のデモや主張を警護することによって、それを行なうことをうながしてしまっているのだ。

 東京都の首相官邸前で、いまの政権にたいする反対などのデモを行なうときに、警察はデモを抑圧するかのような過剰な警備をしく。いまの政権にたいする反対のデモは、主権者である国民の一部による主張なのにも関わらず、警察はそれをするのをはばむ。

 日本の警察のふるまいは、個人的にどうもおかしいように映るのだが、これは一つには日本の警察が国家と結びついてしまっていることによるようだ。警察が国家と結びつくことによって、政治警察になりやすい。

 政治警察とは、秘密警察や治安警察や警備公安警察ともいわれ、いわば警察の裏の面で、大きな力をもつ。いまの政権(時の政権)をよしとする動きをするものだ。いまの政権にたいする反対勢力(オポジション)を活動させないように邪魔をする。

 日本の警察は、国家と結びついた中央集権のあり方をしているという。警察の権限が大きくなりがちとなっている。ほんらい警察というのは、行政のサービスの中において、できるだけ消極であるのがのぞましいのだという。出しゃばらないほうがよいのだ。これを消極行政作用というそうだ。

 日本では警察が出しゃばってくることがあって、積極になってしまっている。自分たちの権限を手ばなそうとしたがらない。容疑者を逮捕したさいに、その被疑者の人権を十分に守ろうとしていない。報道機関の報道はそれに加担して、被疑者の人権を不当におとしめてしまっていることがある。

 国民がさまざまな政治の活動を行なって、色々な声を投げかけるのをうながすために、警察は変に出しゃばって圧をかけるべきではないのではないだろうか。憎悪表現においては、その主張やデモを警護して、それを行なうのを許すのはおかしいことに映る。

 警察というのは、行政のサービスとして、国民の人権を守るためにあるものだが、憎悪表現をすることそのものが人権の侵害だ。とりわけ少数派の人権は守られないとならないのだから、それを損なうことはよくないことだ。そこの具体の線引きはものによっては必ずしも判断は易しくはないかもしれないが。

 実力をもった国家装置であるのが警察だから、国家の手さきとなりやすく、政治警察になりがちだ。できるだけ国民にたいして政治の抑圧として働かないようにすることがのぞましい。

 憎悪表現をおこなうのはまずいが、それ以外の政治のさまざまな活動や主張は色々に行なわれてよいはずであって、警察はなぜそれをさまたげるような過剰な警備をするのだろうか。いまの政権(時の政権)を守ろうとしているのだとすれば、それはおかしいのであって、(一部のではなく)国民の全体の利益をくみ入れないとならないはずだ。

 参照文献 『警察はなぜあるのか 行政機関と私たち』原野翹(あきら)