演繹法の公理系の相対性(非絶対性)

 演繹法では、前提となる条件(前提条件)が真となる。これが真ではなく偽ということになると、その演繹法における公理系は成り立ちづらい。

 実用主義(プラグマティズム)によって見られるとすれば、この世にはまちがいのない絶対の真はない。さしあたっての相対の真であるにとどまる。誰にとっても、いつの時代にもまちがいのない真となる演繹法はとりづらい。

 実用主義では、自分とその近しい人たちなどの、自分が直接に確かめられる範囲の人たち(フェイス・トゥ・フェイス)だけをさしあたっての本当のことだとする。それを超えることは自分で直接に確かめづらい。時間の流れにおいては、現在はあるとして、(現在から遠い)過去や未来は確かめづらい。

 あるていど以上は真だということだと、その人にとってはその演繹法や公理系がよいということになって、その中にとどまることになる。満足や効用を得られる。あるていど以上は真だとできず、偽だということになると、その演繹法や公理系の中にはいられず、外に出ることになる。満足や効用を必要なだけ得られない。別のよりふさわしいものを探すことになる。

 真か偽かということで、二元論にするのではなくて、その中間を見ることが成り立つ。真をとりちがえて偽とすることがあるし、偽をとりちがえて真とすることがある。絶対に真だとか偽だとかいうふうにはせず、定点をもつことによって相対化することができる。そうすればさしあたってのという見かたをとりやすく、実用主義にできやすい。まちがいなく真または偽だということで、自明視しないことも重要だ。

 演繹系の公理系では、前提となる条件が真となるが、それを一つの構造だととらえられる。その構造のにない手として、主体(人間)がなりたつ。構造の効果として主体ができあがる。その効果が弱まると、構造が真とはならずに偽となって、別な構造のほうがより真だとなる。それでその構造のにない手となり、その効果として主体が形づくられる。構造論ではそう言えそうだ。

 実用主義では、さしあたっての真ということになって、現実に通用していれば実用性がある。たとえば、人を殺してはならないとか、薬物を使用してはならないという決まりは、現実に通用していて、実用性がある。これは真と言えるものだ。

 ひとたび疑問をもって、なぜ人を殺してはいけないのかとか、なぜ薬物を使用してはならないのかというふうに疑問を発すると、うまく答えづらい。答えづらいのは、大きい質問(処理質問)であることにもよる。答えやすい(即答できる)のは想起質問だ。

 なぜ駄目なのかの疑問にたいしては、規範として、決まりでそうなっているからだというふうには答えられる。または、決まりを守ることは長期としてはみんなの利益になるからだ、というふうに答えられる。こうして答えても、絶対の説得性はもちづらい。

 決まりというのはその根底では偽(つくりごと)であって、絶対の真とは言えない。決まりを守るという決まり(を守るという決まり、以下つづく)というふうになって、根本としては定まらず、無限に後退する。無限に後退させないために決まりがあるということも成り立つ。

 参照文献 『夢を実現する数学的思考のすべて』苫米地英人 『これが「教養」だ』清水真木 『幸福に死ぬための哲学 池田晶子の言葉』池田晶子現代思想を読む事典』今村仁司編 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典 『正しさとは何か』高田明典 『レトリックと詭弁 禁断の議論術講座』香西秀信 『文学の中の法』長尾龍一 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『「聞く技術」が人を動かす ビジネスや人間関係を制する最終兵器』伊東明