ファミリーバリュー(家族観)ということだが、じっさいにはたんに家族にお金を支給したくないだけであって、家族や個人の自己責任としたいだけなのではないか

 旧民主党子ども手当ての公共政策は、ファミリーバリュー(家族観)を否定してすべてを社会化して行くものだった。首相は国会においてそう言っている。子ども手当てはまちがったものであって、財政の破綻をまねくものだという。旧民主党自由民主党とでは、子育てにたいする考え方がちがう。

 子ども手当ての公共政策が、なぜ家族観を否定することになるのだろうか。すべてを社会化して行くというのもよくわからないものだ。たんに子ども手当てを支給するだけのことが、家族観を否定して、すべてを社会化して行くものだとするのは、よくわからないとらえ方だ。

 子ども手当てを支給しようがしまいが、財政が破綻するおそれは根強くあるのであって、別なことがらだろう。財政の破綻を言うのであれば、子ども手当てよりもむしろ軍事にお金を多く使うことのほうが無駄だ。いたずらに他国(隣国)からの脅威をあおることは、冷静さを欠くものであって、大衆迎合主義(ポピュリズム)となる。

 自民党の家族観とやらは、そんなにごたいそうなものなのだろうか。自民党の家族観は、性別役割分担意識や、家庭の中における家事などの非市場の不払い労働(アンペイド・ワーク)といったものををよしとするものだろう。これまでの古いあり方が崩れているのにも関わらず、いつまでもそれにしがみつこうとしているかのようだ。

 家族観ということを言うのであれば、これまではどうだったのかをふり返って、これからの新しいあり方をどうするのかをさぐることがいる。家族がどうあるかというのは、国や政府がいたずらに干渉することではなくて、なるべく自由なあり方がとれるようであるほうがよい。困っている家族にはお金を支給することがあってよいだろうし、お金は出すけど口は出さない(干渉しない)というのが理想なのではないだろうか。国や政府は家族にたいして中立であることがいる。

 首相は家族観の否定と社会化を危ぶんでいるようだが、家族観の否定は置いておくとしても、個人が生きるうえでかかえる危険性の社会化ということはむしろやらなければならない。なぜやらないといけないかというと、福祉の負担が家族にかかってしまっているからだ。国がやらないといけない福祉の手だてを家族が肩代わりさせられているのだ。家族に恵まれているかや理解があるかどうかということで、きわめて不公平なあり方になってしまっている。

 経済がよくなっていなかったり、財政の破綻のおそれがあったりするのは、子ども手当てなどの福祉のこととまったく別なことがらだとは言えそうにない。関わり合っているものだろう。経済や財政が先というよりは、むしろ福祉のほうが先なのではないだろうか。福祉の不十分さや福祉の制度にたくさんの穴が空いていることで、不安が人々の中に根づよくおきる。それが解消されないことから、経済や財政が悪くなっている。

 財政の悪化というのは、子ども手当てをやろうがやるまいが、福祉の予算を削ろうがどうしようが、避けづらいものになっている。そうであるのであれば、人々がかかえる生活などへの不安を解消するために、基本的需要(ベーシック・ニーズ)を満たせるようにして、福祉を充実させるのは手だ。福祉を充実させることによって、人々の不安が和らいで、経済や財政がよくなることが見こめる。

 福祉を充実させることでよくなることが絶対に見こめるというのではなく、また唯一の正しい手だというのではないだろうが、おそらくはまったく荒唐無稽だとまでは言えないことだろう。あわせて、権力をもつ政治家や高級な役人が税金のでたらめな無駄づかいをするのを削らないとならない。理念(ビルド)とともに、削減(スクラップ)を行なうものだ(ビルドが先で、スクラップはそのあとである)。

 参照文献 『政治の哲学 自由と幸福のための一一講』橋爪大三郎福祉国家から福祉社会へ 福祉の思想と保障の原理』正村公宏 『歴史という教養』片山杜秀 『ここがおかしい日本の社会保障山田昌弘