事実にもとづけと人(記者)には言っておきながら、自分たちこそが事実からずれて虚偽意識(イデオロギー)におちいっている(政権こそが、もっと自分たちの手や足を動かさないと、事実にもとづかないことになる)

 沖縄県普天間基地を、固定化させるのはいけない。固定化させないようにして行く。いまの首相による政権はそう言っているが、そこまではよいのがある。そこまではよいとして、そこから先が問題だ。

 普天間基地を固定化させないようにするのは、政権と沖縄県で食いちがいがおきているのではなく、どちらかというと共通点を見いだしやすいところだろう。

 沖縄の基地の問題については、政権と沖縄県のあいだで、食いちがいがおきづらいところと、おきやすいところがあるのだから、それらをいっしょくたにするのではなくて、二項に分けることがいる。食いちがいがおきるところが、政権の主張と、沖縄県の主張があるところだ。この主張というのは、譲歩(妥協)しづらいところをさす。

 いまの政権は、沖縄に一方的に主張を押しつけておきながら、首相も外務相も防衛相も、沖縄県の基地の建設現場に自分たちが行っていないのだという。沖縄県に何度も足を運んでじっさいに自分たちの目や耳でどうなっているのかを確かめることがないのである。それでおきながら、当事者である沖縄県の主張に耳を傾けようとしていない。

 当事者というのは、当地にいちばん近いのだから、離れている者よりも正確な判断をしやすいところがある。会議室と現場では、(現場から離れている会議室よりも)現場のほうが判断がききやすいのがある。いちばん情報が密なのが当地だ。何かを知るうえでは、遠隔において間接の情報にたよってもよいのはあるが、それよりも確かなのは、当地のじっさいの声を聞いたり、当地をじっさいに目や耳で見たり聞いたりすることではないだろうか。

 いまの政権は、事実にもとづかない主観の質問を長々とするということで、一部の記者を排除しようとしている。そう言っている政権そのものが、自分たちに都合のよいかたよった間接の情報だけにたよっているのではないだろうか。政権と記者を比べれば、足の運びがより軽いのは記者のほうだろう。

 足の運びが軽いというのは、記者は調べるのが仕事というのもあって、じっさいに当地に足を運ぶことができやすい。ものごとを知るためには、自分の(手や)足を動かすのが有益である。その動かした量(距離)に比例して、少しでもものごとを知ることにつながる。

 いまの政権は、ちゃんと仕事にとり組んでいる記者を少しでも見ならってはどうか。もっと手や足を動かして少しでも色々な面を知ろうとしたり、当地の声を受けとろうとしたりすれば、事実をとりちがえることが少しは改まることになるだろう。

 参照文献 『失敗の研究 巨大組織が崩れるとき』金田信一郎 『最後に思わず YES と言わせる最強の交渉術 かけひきで絶対負けない実戦テクニック七二』橋下徹