イチロー選手が悪い(かどうか)というよりも、日本の国のあり方が悪いのはあるのではないか(日本は国として過去の戦争などのあやまちを十分に重んじているとは言えそうにない)

 野球の大リーグで活躍していたイチロー選手が引退を表明した。イチロー選手はかつて韓国のことを悪く見なす発言をしたということで、一部で批判がおこっている。

 イチロー選手はいま引退を表明したばかりで、世間からの注目度が高いために、いまイチロー選手について批判の言及をするのは危険度が高いのはあるから、炎上しやすいのはあるかもしれない。

 イチロー選手について言いあらわすさいに、一つ言えることは、人間というのは基本として複雑なものだという点だ。世の中が複雑になっているので、その中の人間もまた複雑になる。イチロー選手が人として、かりにその一部に非があるところがあるとしても、ぜんぶが悪いとは言えそうにない。一斑を見て全豹を卜(ぼく)すわけには行かず、そこには気をつけたいものだ。

 イチロー選手は有名人であることもあり、影響力が高いので、政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)をもとにした発言を公においてしてくれるのがのぞましい。じっさいには、政治的公正というよりも本音の発言をしてしまっているところが一部においてあるのだろう。

 有名人で、なおかつ影響力が高いのであれば、上に立つ人の責任(ノブレス・オブリージュ)みたいなものを果たしてほしいのはある。それを果たすということになると、有名人は建て前しか言えなくなるということになりかねない。有名人であるとはいっても、さまざまな人がいて、右から左まで色々な意見が出たほうがよい、というのはあるかもしれない。

 イチロー選手はいま引退をすることを明らかにしたばかりだから、そこでイチロー選手のことについて批判をするのは、炎上する危険性が高い。この危険性についてはさしあたって置いておけるとすると、批判をすることはいけないのかというと、そうとは言えそうにない。

 イチロー選手のことを、何から何までというふうに全体として批判するというのではなくて、一部に非があるのであれば、こういうわけだからおかしいというふうに批判をするのは、そこまでおかしいことではないだろう。いわば、頂門の一針のようなものだ。

 日本人の有名人であるのがイチロー選手だということで、日本の国のあり方を批判したい。日本の国が全面としておかしいとは言えないかもしれないが、過去の戦争などのあやまちをしっかりとふり返っていまに生かしているとは言えそうにない。のどもとすぎれば熱さを忘れるになってしまっている。歴史修正主義の動きがおきている。自虐史観から愛国史観へ、みたいな流れになっているのだ。これは、原理原則(プリンシプル)の無い、あれからこれへの転向の流れだ。

 温故知新主義によって、過去である温故における負の部分をふり返って、知新をさまざまにさぐるようにしたいものだ。過去をふり返れば、自国の軍隊は(でさえも)自国の国民を守らない、ということがあるのは無視できそうにない。いたずらに自国の軍隊を増強すれば平和や安全になるとは言えないはずだ。むしろ逆効果になることが危ぶまれる。

 参照文献 『歴史という教養』片山杜秀ひめゆり沖縄戦 一少女は嵐のなかを生きた』伊波園子(いはそのこ) 『新版 一九四五年八月六日 ヒロシマは語りつづける』伊東壮(たけし) 『逆説の法則』西成活裕 「二律背反に耐える思想 あれかこれかでもなく、あれもこれもでもなく」(「思想」No.九九八 二〇〇七年六月号)今村仁司 『夢を実現する数学的思考のすべて』苫米地英人