何々をした(かもしれない)というのには目だちやすいから目が向きやすいが、何々をしていないというのには目だちづらいために目が向きづらいから、していない可能性にも十分に目を向けないとならない

 沖縄県の海岸で、三頭いるうちのジュゴンの一頭が死んでいるのが認められた。三頭のジュゴンは行方不明になっていたという。

 ジュゴンの一頭が死んだり行方不明になったりしているのは、沖縄県辺野古アメリカ軍の新しい基地の建設が進められていることが関わっているということが、時間の前後関係からしておしはかれる。

 ジュゴンの一頭が死んだことと、辺野古の基地の建設とは、必ずしも関わっているかどうかはわからない、という声が一部においてあがっている。たしかに、はっきりとしたことはまだわからない段階だ。

 ジュゴンは生きものなのだから、いつかは死ぬこともある、という声がツイッターのツイートでは言われている。また、ジュゴンが死んだのは基地の建設に反対する人たちが撲殺したからではないか、というツイートも言われている。可能性としてそれはあるというのだ。

 基地の建設に反対する人たちがジュゴンを撲殺したということについては、その根拠がないために、デマであるという検証がウェブサイトで行なわれている。基地の建設に反対する人たちがジュゴンを撲殺したというのは、なぜそういうことが言えるのかという根拠を示すことがないと、信用するわけには行きづらい。

 時間の前後関係や、ジュゴン辺野古の近くをえさ場としていたと言われることから、辺野古の基地の建設をおし進めることと、ジュゴンの死亡や行方不明は、まちがいのない因果関係があるかどうかはともかくとして、何らかの相関関係があるという見かたは成り立つ。

 ジュゴンの一頭が死んだというのは結果である。その結果の原因として、基地の建設に反対する人たちがジュゴンを撲殺したのだというのは、それを行なった具体の証拠がないかぎりは、信じるわけには行きづらいものだ。ジュゴンの一頭が死んだという結果にたいする、原因のとりちがえとなるものではないだろうか。結果にたいする原因の帰属(特定)の誤りとなるものだ。結果と原因をまちがって結びつけるような、誤った物語にはなるべく気をつけないとならない。

 『因果論の超克』において、哲学者の高山守氏は、原因から結果へという流れは成り立つものではないと言っているという。因果論においては、結果から原因へという遡及が成り立つだけだという。結果から原因をさかのぼるさいに、原因をとりちがえてしまうのには気をつけたいものだ。原因から結果ということで、誤った物語がとられやすいし、いずれにせよ言いあらわすさいに多かれ少なかれ物語によることになるのはある。

 因果論による結果と原因の結びつきは、あることとあることの間のものだ。その二つ(二項)に結びつきがあるとするのが因果関係だが、二つを別々のものとして切り離して見られる。

 因果関係が成り立っているものであれば、こうすればこうなるというふうに、あることとあることとの間の結びつきをとれる。そこで、原因から結果への流れをとることはできそうではあるが、じっさいには結果から原因をさかのぼっているのだ。

 因果関係による科学の予測は現実においてほぼ成り立つものの、ほんとうのところはどう転ぶのかはわからない。科学の予測は、過去をふり返るとこれまでのところは、ということにとどまっている。それでも、かなり精度の高い予測は成り立つのはあるが、絶対の真理とまでは言えそうになく、真理にかなり近いとされる仮説(説明)ということだ。

 すべてのものごとには原因があるとするのが因果律だ。この因果律はかくあるべしという規範だとするのが、哲学者のジョン・ホスパーズや法学者のハンス・ケルゼンだという。原因と結果が一対一で対応するようにものごとをとらえよ、という規範が因果律だということだ。この規範によって、原因と結果が一対一になるようにものごとをとらえることに努めるのが、因果律をとることになる。規範というのは、何々であるべき、ということであって、事実として何々である、というのとは異なるものだ。規範は当為(ゾルレン)命題で、事実命題とはまた別だ。

 参照文献 『クリティカル進化(シンカー)論』道田泰司 宮元博章 『創造の方法学』高根正昭 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之 『使える!「国語」の考え方』橋本陽介 『神と国家と人間と』長尾龍一