自由と不自由の弁証法(ていどとしての自由)

 ドイツでは、ナチス・ドイツホロコーストは無かったと言うことや、憎悪表現(ヘイトスピーチ)を言うことが法律で禁じられているという。それらを言うと法律に違反することになって、管理者などに罰金が課せられるということだ。

 ドイツのあり方において見られるのは、言論や表現の自由が最高の価値をもっているのではないということだろう。もし言論や表現の自由が最高の価値をもっているのだとすれば、ホロコーストは無かったとか憎悪表現とかをふくめて、あらゆる言論や表現が許されるのでないとならない。

 自由を価値のあるものにすることにおいて、〇か一かや、〇パーセントか一〇〇パーセントかではないということだろう。かりにもし自由が一〇〇パーセントの価値をもつのだとすれば、自由をさまたげるあらゆるものが許されないはずだ。自由が一〇〇パーセントであれば、どこで誰が何を言ってもよいことになる。

 自由が一〇〇パーセントであるほうがよくて、そこから差し引かれて九九パーセント以下(一〇〇パーセント未満)になるのはよくない、というのは、言論や表現の自由の範ちゅうを見たさいのものだ。範ちゅうだけではなくて、範ちゅうの中のさまざまな正や負の価値があるのを見られる。

 言論や表現の自由の範ちゅうだけを見るのだと、価値がないがしろになって、負の価値を許してしまう。日本では、範ちゅうだけが見られて、その中身が見られないことから、憎悪表現や排外主義の主張をするデモが行なわれてしまっている。憎悪表現や排外主義の主張をするデモをなぜか警察が警護するというおかしなことがおこっている。

 ドイツでは、ホロコーストは無かったと言うのや憎悪表現を言うのは法律で禁じられているが、それは言論や表現の自由を一〇〇パーセントにおいてとるものではなくて、九八パーセントとか九七パーセントとかというふうに、目減りしてしまうものではある。自由に制限を加えて行けば、一〇〇から差し引かれて九〇くらいにはなってしまうかもしれない。

 九〇パーセントの自由は自由とは言えないのかというと、そうとは言えそうにない。一〇〇から差し引かれた一〇の不自由はあるものの、全体として見ると九〇の自由はとられているので、全体としては自由はとられていると言えるだろう。

 九〇パーセントの自由はあるとはいっても、一〇〇から差し引かれているために、一〇の不自由はあるではないか、ということは言える。その一〇の不自由の中に大切なものがあるのなら、それを切り捨てることになってしまう。

 自由の度合いの大きさという点においては、差し引かれている九〇パーセントの自由よりも、差し引かれていない一〇〇パーセントの自由のほうがよいような気がしないでもない。その点については、現実においては逆にはたらくことがある。一〇〇の自由があることがかえって害や危険をもたらすことがある。

 順説で見れば、九〇パーセントよりも一〇〇パーセントのほうがよいような気がするが、逆説で見られるとすると、一〇〇パーセントよりも九〇パーセントのほうがよいことがある。順説はあくまでも理想論であって、順説だけで現実が成り立っているのではないことはたしかだ。逆説であったら自由ではないのかというと、そうとは言えそうになく、たとえ逆説であったとしても自由がとられているということはある。一〇〇の自由がなければ自由は〇だ、というのではないので。

 参照文献 『逆説の法則』西成活裕 『論理パラドクス 勝ち残り編 議論力を鍛える八八問』三浦俊彦 『できる大人はこう考える』高瀬淳一