国会議員は国民の代表であるからこそ、報道機関による権力チェックがしっかりとはたらくことがいる(権力が監視されることがいる)

 報道機関の記者は国民の代表なのか。国民の代表であるのはあくまでも国会議員であって、記者ではない。官房長官はこう言っている。

 たしかに、民主の手つづきで選ばれているのが国会議員だから、民主の正当性が高いのが国会議員だというのはある。報道機関の記者はそれが高くはなくて低いのはいなめない。

 国会議員は国民の代表だと、当の国会議員がさもえらそうに言えることだろうか。権力をになう政治家は、いざということになっても責任をとらない。辞めればただの人だ。権力をになう政治家のしでかしたことの尻ぬぐいというかたちで、最後に損をしたり馬鹿を見たりするのは国民だ。

 国民の代表であるかどうかというのは、代表を代理というふうに言い換えられる。国会議員も記者もどちらも国民の代理と見なせる。記者は国民の代理(媒介)として国民に情報をもたらす。

 国会議員はあくまでも国民の代理にすぎず、国民の全体とぴったりとは合っていない。時の政権は国民の全体の一般意思とはいえず、特殊意思に当たるだろう。与党は国民の全体を代表しているとは言えず、その一部分を部分として代表しているのにとどまる。

 国民の代表というのは、国民と国民の代表ということで、二つに分かれていることに注意をしたい。二つに分かれているということは、みぞがあく。言っていることと思っていることや、言っていることとやることとがずれることがあるのをあらわす。国民の代表(権力者)が嘘を言うことがしばしばあるということだ。

 二つに分かれているうちで、そのいっぽうである、国民の代表のほう(権力者)に、いちじるしい腐敗や不正がおきることがまずいことなのだ。これは二つに分かれてしまっていることにまつわるものだ。間接民主主義の欠点であり二面性(清と濁)だ。

 国民の代表であるかどうかということで人が言っていることの内容を見ると、発言者(発生論)で見ることになる。発言者がどうかということではなくて、言っていることの内容を切り分けて見るようにするのはどうだろうか。

 場合分けをすることができるとすれば、たとえ国民の代表(国会議員)であったとしても言うことが正しいこともあればまちがっていることもある。国民の代表ではないとしても、言うことがまちがっているだけではなくて正しいことがある。

 発言者と発言(の内容)を分けて見るようにすれば、発言者がどうかということで言っていることの内容をこうだと決めつけてしまうことを避けられる。同じ内容のことを言うとして、それを言う人が国民の代表であるかどうかによって、言うことの内容そのものが変わるわけではない。

 言っていることの内容がおかしいのであれば、誰が言っているのかは置いておいて、その内容に反論や批判をすればよいから、発言者がどうかということを必ずしも持ち出すことはいりそうにない。発言者がどうかというのを持ち出してしまうと、人に訴える議論におちいる。人に訴える議論であるから絶対にいけないとかまちがいだとは言い切れないが。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ 『二極化どうする日本』柴栗定夢(しばぐりさだむ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『憲法主義 条文には書かれていない本質』南野森(しげる) 内山奈月