洗脳やねつ造と虚偽意識(イデオロギー)との関わり

 洗脳やねつ造を持ち出すのは、虚偽意識(イデオロギー)に通じるところがある。あることについて虚偽意識だと言うのは、そう言っている人にもまた当てはまるのがある。お前もそうだろ、といったものだ。

 洗脳やねつ造を持ち出すさいに、そこに含意や両面性があるのが見てとれる。自分がこうあってほしくはないように洗脳やねつ造がされていることがあるということについて、その逆もまた成り立つ。自分がこうあってほしいというように自分が洗脳やねつ造されていることもまたあるのだ。

 洗脳やねつ造があるとすることには、再帰性(reflexivity)があるのがうかがえる。自分がもつ、こうであるのにちがいないという見なし方が、外に反映されることになる。それが自分にはね返ってくるというものだ。大きな物語は成り立ちづらく、小さな物語によることになる。

 小さな物語によるとはいえ、何が正しいのかということをひどくおろそかにしてしまうような相対主義はまずいかもしれない。その点については、真理か虚偽かということで、対応や整合や実用(対応説や整合説や実用説)で見て行くことができる。そのほかに、言っていることがさし示すものが何かや真か偽かなどを見る意味論や、言っている人やその状況を見る語用論がある。

 歴史における負のできごとがおきたことについて、その負のできごとを体験したり立ち会ったりした人がいるとすると、それらの人が言うことについて語用論で見られる。発話者の状況をくみ入れられる。

 語用論においては好意の原則をとれるので、歴史における負のできごとを体験したり立ち会ったりした発話者の言うことがまちがいなく虚偽であるという具体の証拠がないかぎりは、真理だとして受けとることが成り立つ。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『暴走するインターネット』鈴木謙介構造主義がよ~くわかる本』高田明典 『本当にわかる論理学』三浦俊彦