薬物を使った製作者(当事者)が一定の制裁を受けていれば、作品には罪はないということで作品は罰を受けなくてもよいのではないか

 薬物を使っていた人がつくった作品には、場合によっては罪がある。ある種、ドーピング作品になる。だから、薬物を使っていたことがわかった人がつくったり関わっていたりする作品は、駄目なものであるし、公開するのはやめたほうがよいことがある。テレビ番組において出演者はそう言っていた。

 たしかに、薬物をまったく使っていない人と、使っている人とが、同じ線引きとして同列にあつかわれるのには、公平さの点で違和感がないではない。そうではあるけど、では薬物を使っていた人がつくったり関わっていたりする作品に罪があるのかというと、そうとは言えないのではないだろうか。

 作品に罪があるというのは、個人的にはあまりうなずくことができそうにない。作品に罪があるということになると、作品が罰を受けるということになるが、作品が薬物を使用していたわけではないし、作品というのは人格ではないから、作品には罪はないのではないだろうか。

 つくった人が薬物を使用していたから、作品に罪があるとか、作品が悪いのだというのには、そこまで賛同することができないのがある。つくったり関わったりした人が、薬物をやっていようといまいと、よい作品はよいということがあるのではないか。それまではよい作品だなと受けとっていたものが、ひとたび製作者や関係者が薬物を使用していたとわかったら、よい作品ではなくなるのだろうか。そうなると、薬物の使用という文脈(コンテクスト)の情報があるかないかで作品(テクスト)の質が変わってしまうことになる。

 ドーピング作品という言い方に少し違和感がある。スポーツの競技におけるドーピングと、芸術や文化の作品とを、類似したものとして見なすことは必ずしもできそうにない。類似していないとすれば、ちがうあつかいをしてもよいところがある。

 スポーツの世界は健全であることがいるが、芸術や文化の世界では、退廃(デカダンス)ということがある。退廃とはいっても、罪にまみれすぎていては駄目かもしれないが、まったく非のうちどころのない健全そのものなあり方からすぐれた芸術や文化は生まれるものなのだろうか。人間の文化の本質は過剰さ(exces)にあると言われる。

 スポーツの世界であれば、薬物を使ってドーピングをするのは、少しでもよい結果を出すという目的にじかにつながっている。そのいっぽうで、芸術や文化の世界においては、スポーツのような数値によるよい結果というのだけがものさしになるのではない。たんによい作品をつくるために薬物を使用するとは限らず、人間や社会のもつ闇のようなものとも関わっている。

 薬物を使用することと、すぐれた作品を生み出すこととは、そこまではっきりとした相関関係があるのかはわからない。精神の苦痛を和らげるためだということであれば、すぐれた作品を生み出すこととはまたちょっと別だというとらえ方が成り立たないではない。薬物を使わないとして、準薬物と言えるようなもの(お酒やたばこなど)を使うことは、薬物を使うのとどうちがうのか。それぞれの人の置かれた環境のちがいや、運や不運や、むくわれるかむくわれないかなどのちがいを見ることがあってもよいことだろう。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信