歴史の負のできごとはねつ造や洗脳であるとする、歴史修正主義と、立証の責任

 その時代に生きていた人たちは真実を知っている。そのいっぽうで、洗脳された人たちには真実がわからない。いまの人たちは洗脳されているので真実がわからないのだというツイートがツイッターで言われていた。

 歴史においておきたナチス・ドイツホロコーストでいうと、ホロコーストはじっさいには無かったのだというのは歴史修正主義だ。この歴史修正主義をとるとすると、ホロコーストがおきた時代に生きていた人たちは、ホロコーストが無かったのだという真実を知っていて、洗脳されているいまの人たちはその真実がわからないので、ホロコーストはあったとしていることになるが、これはおかしいことだ。

 歴史修正主義において、無かったという真実を、あったというふうに逆に洗脳することは、いったいどういうふうにやるのかが定かではない。一八〇度のまったく逆に洗脳することになるし、世界中の人たちを洗脳することになる。歴史修正主義における真実から洗脳(ねつ造)へという転換の時期に、何の反対もおきずに滑らかに行なわれることはありえづらく、非現実的である。

 歴史の大きな負のできごとにおいて、少なからぬ体験(経験)者や立ち会った人たちがいるのだとすると、その人たちすべてをだますことはできづらい。体験者や立ち会った人たちが、歴史の大きな負のできごとがあったというふうに認めたり伝えていたりするのであれば、それは基本として立証されていることだと見なせるものだ。その立証がすんだことを、歴史修正主義ではねつ造だというのであれば、ねつ造であることを客観としてていねいに立証する責任がある。

 歴史は相対的なものだという歴史相対主義をとるとしても、必然としてねつ造や洗脳が行なわれたとは見なしづらい。可能性として、歴史の負のできごとがあった(おきた)ということは、過去の負の痕跡が残っている以上はそう見なすことができるものだ。

 過去の負の痕跡はさまざまに残っているのだから、歴史修正主義による洗脳やねつ造だというしたて上げには無理がある。歴史の負のできごとは本当は無かったが、洗脳やねつ造によってあったとされているというのは、そうしたて上げることになるが、そのようにしたて上げて抽象化することで、捨象されてしまう大事なことが色々とおきてくる。かんたんに整合して割り切れるものではない。

 おきたことそのものではなくて、伝えるさいに主観の筋書きが入りこんでしまうのはあるから、それについてはいかなるできごとにおいても当てはまるものであって、物語の形式になってしまうのは避けづらい。だからといってまったく真実ではないということはできそうにない。文豪のゲーテは、詩と真実ということを言っているという。詩ということで、多少の主観は入りこんでしまう。

 参照文献 『論理パラドクシカ 思考のワナに挑む九三問』三浦俊彦 『使える!「国語」の考え方』橋本陽介 『姜尚中政治学入門』姜尚中 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信現代思想を読む事典』今村仁司編 『論理的に考えること』山下正男