議会内の反対勢力(オポジション)を軽んじて、議会外の反対勢力(記者など)も軽んじているのは、いまの首相による政権が自由民主主義をないがしろにしていて、寛容性が欠けているのだと見られる

 東京新聞の記者を守れ。いまの政権の官房長官は、官房長官の記者会見において、政権にとってうとましい質問をしてくる東京新聞の記者を排除しようとしている。特定の記者が質問することを制限しようとしている。これはあってはならないことだという声があがっている。

 東京新聞の記者にたいしては、英雄を気どっているのではないかという批判が投げかけられている。また、記者クラブの閉じたあり方が悪いという批判が投げかけられている。

 たしかに、東京新聞の記者のあり方が一〇〇パーセント正しいかどうかはわからないところだ。それにくわえて、記者クラブの閉じたあり方は改められたほうがよいのはある。開かれたあり方になったほうがよいから、記者クラブにたいする批判は有益なものだろう。

 問題の所在はどこにあるのだろうか。それはひとえにいまの首相による政権にあるのだと見なしたい。そう見なしてみたいのは、一つには、だれに責任があるのかといえば、政治権力をになっている政治家にあるということができる。いまの首相による政権は、自分たちに都合の悪い報道をしてほしくないばかりに、報道の自由の度合いを高めることをちっともやろうとはしていない。やる気がない。

 報道の自由の度合いが高まって、さまざまな報道が行なわれるようになったら、いまの首相による政権にとってははなはだ困ることなのだ。報道が抑圧されることになったほうが、いまの首相の政権にとっては都合がよい。そうはさせじということで、東京新聞の記者は出る杭というような形になってがんばっているのではないだろうか。出る杭になることによって悪玉化されている(打たれている)のだ。

 いまの首相による政権は、出る杭となっている東京新聞の記者のことを悪玉化するのではなく、官房長官の記者会見や報道の自由について、根源(ラディカル)として見るようにするのはどうだろうか。

 政権と記者とのあいだで紛争がおきているのであれば、紛争の一方の当事者を排除しようとするのではなくて、争点を解消するように努めることが政権には求められる。政権は、数の力にものを言わせて、力を持っているということでいるのかもしれないが、力(might)と正しさ(right)は分けて見られる。

 力と正しさは分けるようにして、紛争の争点において、力にものを言わせないようにして、政権が自分たちで抱えている自分たちの危機から逃げないようにしないとならない。自分たちの抱える危機についての危機管理や説明責任(アカウンタビリティ)が政権には問われている。

 どうあるべきかということにおいては、温故知新主義をとるようにして、これまでをさまざまにふり返って、これからの新しいあり方をどうするのかを色々と見て行く。隠れてこそこそやらないで、おもて立って明らかにしてみなに開かれた中でさぐるようにしたい。それをしないのであれば、いまの首相の政権は責任を果たしているとは言いがたい。

 参照文献 『歴史という教養』片山杜秀 『「野党」論』吉田徹 『一三歳からのテロ問題 リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『「説明責任」とは何か』井之上喬(たかし)