橋をかけられれば外交となるが、それをする気がなく、できていないので、非外交というふうに一部においてなっている

 外交とはいえ、いまの日本のあり方は一部において非外交になってしまっているのではないか。大衆迎合主義(ポピュリズム)によって与党の政治家が国民をあおったりたきつけたりしている。

 外交ではなく一部において非外交になっているのは、大きな文句が幅を利かせてしまっていることに見られる。大きな文句とは勇ましさによるものだ。それに歯止めをかける小さな文句が大切だ。小さな文句はかき消されてしまっている。

 美智子皇后はこう言っている。単純さではなく、複雑さに耐えなければならない。ちがう考え方があることを受けとめて、橋をかけることがいる。このことを、いまの与党の政治家やいまの首相による政権は重く受けとめてほしいものだ。

 非外交とはならず、外交を行なうためには、日本は正しいということで凝り固まるのはのぞましくない。日本は正しいということを相対化して、日本を批判してくる国とのあいだに、橋をかけられればよい。たんに日本は正しいとするのは単純なものであって、複雑さに耐えていることにはならない。

 日本は正しいということで単純化すると、教条(ドグマ)主義や合理主義におちいる。それを避けるようにして、経験主義や修正主義によるほうがどちらかというと無難だ。

 日本を批判してくる国よりも、日本のほうが正しいのだというのは、あまりあてにはならない。日本は正しいというのは、状況や文脈によってぜんぜんちがってくる。一貫性がないので違和感をいだかざるをえない。日本の国内で、いまの政権や高級な役人がでたらめやごまかしをしていることの、どこに正しさがあるというのだろうか。これがひとたび目先が転じて、日本のことを批判してくる国のことになると、状況(文脈)が変わるせいか、日本は正しいのだとなってしまうのが個人的には不思議だ。

 自衛隊において、大事なこととして、正早安楽(せいそうあんらく)というのがあるのだという。いまの政権や高級な役人は、これがいちじるしく欠けてしまっているのではないだろうか。すべての土台となるのが正だが、正ではなく誤で、誤でなおかつ早いことがあるからたちが悪い。税金を無駄に使っているので安ではなく高になっている。無駄に労力や費用を用いているので楽ではなく苦になっている。楽ではなく苦だという点では、国民の少なからずがおそらくはそうだろう。

 参照文献 『橋をかける 子供時代の読書の思い出』美智子 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅 『自衛隊に学ぶメモ術』平野隆之 松尾喬(たかし) 『科学的とはどういうことか』板倉聖宣 『できる大人はこう考える』高瀬淳一