首都機能を移転することと、うみがたまりつづけること

 いまの首相による政権には、うみがたまっている。政権だけではなく、与党である自由民主党にもまた、うみがたまっている。それのみならず、日本における政治の中枢である、東京都の永田町や霞が関にもまた、うみがたまっているのではないか。

 政治の中枢である永田町や霞が関にうみがたまっているのを何とかするために、首都機能を移転する手がある。逆に言うと、これが行なわれていないことによって、うみがたまったままになってしまう。

 首都機能を移転させることが、どこからどう見てもまちがいなく正しいことだとは言えないかもしれない。完ぺきに正しくはないかもしれないが、いままでにたまったうみを外に出すためには有効性があるというのがある。

 たんなる手段にすぎないのが首都機能を移転させることだ。手段の目的化になるのには気をつけないとならない。質の低い政治家(政治屋)や役人が多くならないで少なくなって、政治においてこれまでにたまったうみや汚れが出せる手だてがとれれば、日本の社会や国をよくすることに益になる。このさい、温故知新主義によって、十分にこれまでをふり返る温故と、これからのあり方を色々と探って行く知新を行なうのは欠かせない。

 中期や長期のことを見すえて行なわないとならないのが、首都機能を移転させることだが、これが行なわれないのは、いまの首相による政権やいまの与党が自分たちの短期の利益に走っているためだろう。中期や長期の視点がいちじるしく欠けてしまっているのだ。いまにおいてどうこうなるというものではなくて、たとえいまにおいて利益になるのではなくても、長い中期や長期の視点においてという発想がとられていそうにない。

 あくまでも主観による見かたにすぎないものではあるが、このままいまの政権やいまの与党や政治の中枢である永田町や霞が関に、うみがたまりつづけたままでいてよいのだろうか。それでよい社会や国のあり方にしようとするのは、そうとうに無理のあることのような気がしてならない。

 いままでにためにためつづけてきたうみをしっかりと外に出すようにして、それができたうえで、よい社会や国のあり方にするためにものごとをおこなって行くのが、ふさわしいすじ道であって、それを抜きにしたままではものごとがうまく行くものとは見なしづらい。

 参照文献 『私の文章修行 生涯学習ノート』神田真秋 『歴史という教養』片山杜秀