いまの首相による政権やいまの与党に見られる、雑音(ノイズ)の発信(乱雑さであるエントロピーの発信)

 雑音(ノイズ)の表現の自由というのはあるのだろうか。ふつう、表現の自由といえば、何らかの意味のあることをやり取りするものだ。意味のあるやり取りをしているところに、雑音の表現の自由だということで雑音が入りこんできたら、意味のあるやり取りは台無しになる。無意味になる。

 国会では、首相の答弁は内容がすかすかなことが少なくない。質問されたこととかみ合っていないことが多い。これは、首相の言うことが雑音に近くなっていることをあらわす。雑音に近いために、意味のあるやり取りが行なわれなくなっている。

 ほんらいであれば、国会において、意味のあるやり取りが行なわれるのであることがいる。理想論としてはそれがすべてであるのでないとならない。おべっかとか、愛想を言うのとか、お世辞を言うのとかといった、権力にこびを売ることは、意味があるやり取りとは言いがたいものであって、できるだけ行なわれないことが必要だ。

 首相が雑音に近いことを言うことに見られるのは、いまの政権やいまの与党が虚偽意識(イデオロギー)になっていることだ。話し合いや説明責任(アカウンタビリティ)を果たすことが欠けていて、独話や同じ質の者どうしの会話にとどまっている。

 雑音とは意思疎通のやり取りをさまたげるものであって、これをとり除かないことには意思疎通のやり取りはできないが、とり除くのではなく用いてしまっているのがいまの政権やいまの与党だろう。意味のある意思疎通のやり取りの拒絶ということが、いまの政権やいまの与党には見られる。他から忠告や批判を投げかけられても、自分たちで雑音を発信して、それによって自分たちの耳に入らないようにかき消して、つき進んでいる。

 立ち場を変えて見てみると、いまの政権やいまの与党にとって見れば、自分たちを批判してくるものこそが雑音であるのにほかならない。官房長官の記者会見でいうと、東京新聞の記者は、長官にとってはうとましいものであって、長官にとっての雑音だ。雑音であるがゆえに長官は記者を排除しようとしている。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想のキイ・ワード』今村仁司 『あなたの人生が変わる対話術』泉谷閑示(いずみやかんじ)