運をよくするてっとり早い手だての希少性

 運をよくする。そのいちばんてっとり早い手だては、運がすごくよい人とつき合うことだ。運がすごくよい人とつき合えると、自分の運もまたそれによって上がるのだという。雑誌の記事の中で、経済学者の森永卓郎氏が言っていた。

 そもそも、運がすごくよい人と近づけるということが、運がよいことだろうから、運をよくするというよりも、もとから運がよいというだけのことではあるかもしれない。運がよくなければ、運がすごくよい人とつき合うことはできづらいから、機会を得るのは現実的にはむずかしいかもしれない。

 運がすごくよい人はどこにでもいてありふれているのではないだろうから、希少性が高い。希少性が高いものは、供給よりも需要が上回ることになって、誰もが(多くの人が)欲しがるものとなる。ただ飯はない(ノーフリーランチ)ということで、得やすくはなく、得がたいものということになる。

 運は人が運んでくることが多いのだという。運とともに、それを運んでくれるような運のよい人を目利きできれば、自分の運を上げることにつながる見こみが立つ。理想論としては、運の格差がおきないで、うまく拡散するのなら平等になりやすい。

 自分の運をよくするというのは目的だ。その目的を達するための手段として、運がすごくよい人と出会うというのがあるが、運がすごくよい人とつき合うのはありふれたこととは言えないので、誰にでもできる手ごろな手段とは見なしづらい。

 理想論としては、運がすごくよい人とつき合えたらそれは運がよいことだが、現実論としては自分に手がとどく手段によるしかない。制約(条件)がある中で行動(最適化)を行なうというのが、経済学では言われているという。合理的期待形成の理論だ。

 アフリカのことわざではこんなものがあるという。馬が川で水を飲むときに、その馬が飲むべき水が口元を避けることはない。これの意味するところは、馬が飲む水は最初からすでに決まっているので、その馬のところには何がどうあっても必ず水が流れてくる。何をしていても、どうあっても水は飲める。

 このことわざは、仏教による阿弥陀さまの本願にほんの少しだけ通じるところがあるかもしれない。阿弥陀さまの本願では、その人がどうであったとしても、何が何でもその人を追いかけてきて、必ず救ってくれるのだという。阿弥陀さまは人に罰を下すことは一切ない。ただ人を救ってくれるのだ。何ともありがたい話ではないか。本当にそうなるかどうかは確かにはわからないが。

 また、アフリカのことわざにはこんなものもあるという。今日は足りないものだとしても、明日にはそれがあまる。悲観論でとらえさえしないようにすれば、明日には足りるようになる。それのみならず、あまりさえするというのだ。マイナスがプラスになるといったものだろう。マイナスがマイナスのままだったら嫌なものだから、変化がおきてプラスになったらうれしいものだ。

 参照文献 「ゆほびか」二〇一二年十一月号 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之 『一週間の食費が三〇〇円だった僕が二〇〇坪の別荘を買えた本当の理由』ボビー・オロゴン 『ラッキーをつかみ取る技術』小杉俊哉 『日本人を考える 司馬遼太郎対談集』 『現代哲学事典』山崎正一 市川浩