議論の土俵を広く開放して、開かれたものにしたうえで、どうあるべきかを話し合うようにするのはどうだろうか

 女性を土俵に上げることは考えていない。日本相撲協会はこう言っている。伝統としてそうであるためだという。土俵は男が真剣勝負をする場であって、女性を上げることは考えていないし、女性への差別だというのはまちがいだ、とのことだ。

 ウェブでは、日本相撲協会の言いぶんはおかしいのではないかという声が投げかけられている。土俵は男が真剣勝負をする場であるということと、女性を土俵に上げないこととは、結びついていないではないか、という声があった。たしかに言われてみると、結びついていないことのように受けとれる。

 伝統とは言っても、明治時代に入ってからでき上がったものだということだと、そこまで深いものだとは言いがたい。伝統だから正しいとか、これからも受けついで行くべきだというのは、確かな説得性を持っているとは見なしづらい。温故知新主義でいうと、温故をもっと色々に見て行かないとならないし、これからの新しいあり方をどうするかという知新を色々に探って行くことがいる。

 男性か女性かというのは、客観の性質だ。客観の性質は事実(is)であって、価値(ought)とはまた異なる。それらを分けることがいるが、客観の性質である性別から価値を導いてしまうのは、自然主義の誤びゅうだ。is(何々である)からought(何々であるべき)を導いてしまっている。

 女性は土俵に上げるべきではないというのは、ふさわしい前提条件だとは言えそうにない。ふさわしくはないのは、自然主義の誤びゅうになっているからだ。そうであるために、ふさわしくない前提条件から導かれた結論は、説得性が高いものだとは見なせない。

 ふさわしいものではなく、確かではない前提条件によっていると、独断におちいる。独断から偏見が導かれる。偏見となっているとすれば、不合理な区別である差別となっているということが言える。差別ではないということはできないだろう。

 男性や女性ということで、その集合(類)にたいして定義(性格)づけするのは危険なことだ。それにくわえて、女性は土俵に上げるべきではないということになると、男性か女性かという箱(ボックス)に入れる見なし方になっているので、これもまた危険だ。人にたいする観念の思いこみであるステレオタイプにおちいっている。

 男性や女性はこういったものであるというふうに、したて上げてしまうのはまずい。男性か女性かということで、こうであるというふうに基礎づけできるものであるとは見なしづらい。基礎づけをするのは同一の論理によっているものだが、じっさいには差異があるものだ。基礎づけや価値づけを絶対のものとして、それをできるというのであれば、それは大人のあり方だとは言えそうにない。現実においては、価値は客観なものとはできず、主観のものにとどまる。

 少なくとも、日本相撲協会は、いくら伝統がどうかということがあるのだとしても、男性か女性かということで、分類や定義(性格)づけをいたずらにするべきではなく、それをするのは危険さやまちがいをまねき入れることになる。

 日本相撲協会には税金(公費)が投入されているということのようだから、社会関係(パブリック・リレーションズ)をなすようにして、みんなができるだけ納得できるような説明をするべきだ。それができないのであればあり方を変えることは必要だ。広くみんなの効用の総量が増えるようなあり方がのぞましい。そのほうが合理的だろう。

 男性は土俵に上がってもよいが、女性は上がるべきではないといったように、教条(ドグマ)化や権威化するのは適したことだとは言えそうにない。それについてはそのまま受け入れることはできず、待ったをかけたいものだ。

 女性なくして男性もまたないのだから、仏教の縁起の理からすれば、女性のおかげがあって男性があるのであって、その恩をあだで返すようなことになりはしないだろうか。男性や女性というのは、あらかじめ実体としてあるものではなく、関係のほうが先立っている。関係が一次的なものとしてあって、そのごに(関係の網の目において)ちがいがおきるのだ。

 男性か女性かというのは二世界論であって、この見なし方はやや時代錯誤だ。いまの時代においては、もっと複雑な見なし方が適しているもので、細かく見られるし、男性と女性のあいだにある分類線は揺らいでおり、あいまい(ファジー)なものとして見ることが成り立つ。男性や女性という記号表現(シニフィアン)にたいする記号内容(シニフィエ)は人によって差があるので、揺らいでいる。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『人についての思い込み一、二 悪役の人は悪人? A型の人は神経質?』吉田寿夫唯識の思想』横山紘一 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香 『「説明責任」とは何か』井之上喬(たかし) 『記号論』吉田夏彦 『歴史という教養』片山杜秀 『正しさとは何か』高田明典 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典 『キヨミズ准教授の法学入門』木村草太