擬似戦争状態(疑似自然状態)となっていることのおおもとには、いまの政権やいまの与党のでたらめやおかしさがある

 じっさいの戦争とは言えないとしても、擬似戦争になっている。大げさな言い方ではあるかもしれないが、そう言ってみたい。戦争とは言っても、じっさいに殺し合いをするわけではないし、民主主義というのは頭を割るものではなく頭数を割るものだ。頭をかち割るのではなく(その代わりに)、数の多い少ないによる。これは文学者のエリアス・カネッティ氏の言っていることである。

 民主主義とは言っても、いまの首相による政権は、専制主義(デスポティズム)に横すべりしている。民主主義はほうっておくと、多数派の専制になったり、専制主義になったりという変質や転落がおきる危険さがある。多数派は専制となりやすく、これを民主主義的専制主義だと、思想家のアレクシ・ド・トクヴィル氏は言う。

 それでその専制のおかしさを批判すると、憶測で批判するなだとか、人格を否定するなだとかと政権は言うのだ。憶測も何も、説明責任(アカウンタビリティ)や立証責任を自分たちで果たしていないで棚に上げているのだからしようがない。

 日本の社会や国や、国民にとって益になることをさぐるには、なるべく平和的に話し合いを進めるのがのぞましい。そうではなくて、与党と野党がぶつかり合うことになって、お互いの損や得をいちばん重んじるようになると、擬似戦争となる。国民のことは放ったらかしになる。

 与党の得(益)は、そのまま国民の益になるかというと、そんなことはない。直接民主主義ではないのだから、そういったことはおきづらい。間接民主主義においては、政治家と国民とのあいだに距離がおきざるをえない。政治家や政党はたやすく虚偽意識(イデオロギー)と化すことになる。

 与党の中にさまざまな声があって、それを許すようであればよいが、党に忠誠を誓う者だけをよしとするのならまずい。擬似戦争をまねきやすい。これは見かたを変えてみると、定住が戦争を呼びおこしやすいのに通じる。

 党に忠誠を誓う者に、党の上層部が利得を与える。党に忠誠を誓う者は、利得を得ようとして、党には歯向かわないようにして、おもねることをしつづける。党は少しでも損をしないようにして、得をしようとするように動く。党の中で忠誠を誓う者は、自分が少しでも利得を得ようとするために動く。権力寄生の冷笑主義がはびこりやすい。

 権力に寄生する冷笑主義がはびこることで、独裁主義や専制主義や全体主義がまかり通るようになる。これはかつてのドイツでアドルフ・ヒトラーによるナチス・ドイツがおきたさいに見られたことであるという。

 戦時中の日本では、国や天皇に忠誠を誓う者に利得を与えていた。忠誠を誓う国民は国や天皇から利得を得ようとしていた。それが戦争を引きおこすことにつながって、戦争によってきわめて大きな被害を生むもとになった。

 権力のまちがっているところを批判するのがキニシズムだが、権力に寄生してこびることで冷笑するのがシニシズムだと、哲学者のペーター・スローターダイク氏は言う。シニシズムは現状に甘んじて追随するものだが、これが強くなって、権力を批判するキニシズムが弱体化するのはまずい。

 じっさいの戦争ではないとしても、擬似戦争になってしまうと、国民のことが放ったらかしにされかねない。こうならないようにするためには、損か得かということだけで動かないようにして、得ではなく損を引き受けることが与党には求められる。政権や与党が損を避けて得をしたとしても、国民に得(益)にならなければ何の意味もない。

 日本人は臨戦の態勢になりがちで、(文ではなく)武を重んじてしまいやすい。文弱をさげすみ、尚武(しょうぶ)をよしとしがちだ。作家の陳舜臣(ちんしゅんしん)氏はそう言っている。臨戦の体制になることで、損か得かで動いてしまいやすいのだ。ギブ・アンド・テイクでいうと、いまの政権やいまの与党は、自分たちがテイク(得)することばかりにかまけていて、ギブ(損)することをかたくなに避けている。これではいけない。

 ギブ(損)をたくさんして、テイク(得)はほんの少しだけ、というていどが、いまの政権やいまの与党にはちょうどよいくらいだ。そうであることによって、国民の得(益)になることが見こめる。いまの政権やいまの与党は、テイクがあまりにも多すぎていて、強欲でごう慢におちいっている。それが一強であることにつながっている。

 いまの政権やいまの与党は、けっして強欲でもごう慢でもなく、一強であることは実力にふさわしいことであって、当然のことだ、という声はあるかもしれない。それはそれでまちがった見かたではないかもしれない。どこからどう見ても完ぺきに害そのものになっているとは言い切れないのはある。その点については人によってさまざまだろう。

 不毛なぶつかり合いである擬似戦争(紛争)をしないようにして、できるだけ平和な話し合いをするためには、いまの政権やいまの与党が、自己欺まんの自尊心(vain glory)にかまけないようにすることがいる。虚栄心をもちすぎないようにしないとならない。

 自己欺まんの自尊心や虚栄心を、いまの政権やいまの与党が手放さないでもちつづけているかぎり、擬似戦争状態(疑似自然状態)はなくなる見こみが立ちづらい。ちなみに、自己欺まんの自尊心の反対となるものは謙虚さ(humility)だが、いまの政権やいまの与党にはよく目をこらしてもこれがいちじるしく欠けているようにしか見えない(お前もそうだろ、と言われてしまうかもしれないが)。

 自己欺まんの自尊心や虚栄心によることによって、自分たちは多数から選ばれて支持されているのだというごう慢がおきてくる。ごう慢になることによって欠けてくるのが学ぶことだ。いまの政権やいまの与党は、謙虚さが失われているために、学ぶということがなされていなくて、そのためもあって、国会でのやり取りがめちゃめちゃだ。

 疑似戦争状態となっていることはよいことではなく、これを平和な社会状態にするために、味方と敵によるぶつかり合いをそのままにするのではなく、できるだけ早く止揚(アウフヘーベン)しないとならない。そのほぼすべての責任は、いまの政権やいまの与党にあるが、責任を果たそうとはせずに、無責任体制になっているのだ。

 参照文献 『人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争』松木武彦 『日本人を考える 司馬遼太郎対談集』 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『群衆 モンスターの誕生』今村仁司 『本当にわかる現代思想』岡本裕一朗 『法哲学入門』長尾龍一 『「学び」で組織は成長する』吉田新一