人格というのをやたら気にするところに、法の支配にたいする意識の薄さがかいま見られる(上に立つ者の人格というのはどちらかというと人治主義や徳治主義に似つかわしいことではないだろうか)

 野党の議員は、勝手に色々な憶測をしたうえで批判をしている。人格について否定的な批判をしている。そういうことは止めたほうがよい。まだ若くて将来があるのだから。国会で首相は、野党の議員をたしなめるかのようなことを言っていた。

 野党の議員が、勝手に色々な憶測をしているのではなくて、たんに首相が疑惑からまったく逃げ切れていないだけだろう。色々な疑惑を首相や政権はかかえているが、それについて憶測がおきるのは、首相や政権が十分に説明責任(アカウンタビリティ)を果たしていないことが大きい。

 ことわざでいう、頭かくして尻かくさずとなっているために、ごまかし切れていないで、思いきり尻が出てしまっているのだ。危機となることにまともに向かい合ってしっかりと対応せずに、何とかごまかして逃げ切ろうとしているために、危機の解決にいたっていない。

 さまざまな情報がやりとりされていて、どれが本当に正しいことなのかが分かりづらい。ポスト・トゥルースの時代と言われている。それを悪用しているのがいまの首相による政権やいまの与党だが、たとえ悪用しているからといって、すべての国民の目や耳をごまかせるものではないだろう。

 情報をつくったり流したりする技術が発達している世の中のありようがあるのだから、上に立つ者の悪いことが比較的ばれやすい世の中になっている。虚実は入り混じっているものの、さまざまな情報は広く拡散する。それでいて逃げ切ろうとするのだから、無理があるし、社会や国の全体がおかしなことになる元凶だ。軽んじてよいことだとは言えそうにない。

 野党の議員から、法の支配の対義語となるものは何か、と聞かれた首相は、それに答えられていなかった。とっさの質問を投げかけられたとはいえ、政治にたずさわっている上に立つ者が答えられないのは残念なものだ。うっかりど忘れしたということはないではないかもしれないが。

 対義語がわからないということは、法の支配についての十分な理解が欠けているおそれが低くない。対義語というのは反対の意味のものであるのとともに似たものでもある。相違点があるのとともに共通点をもつ。対義語が分かることで輪郭や境界線がはっきりとする。それが答えられなかったことで理解の足りなさを責めるのは、(首相が言うような)たんなる的はずれな憶測や人格の否定になってしまうだろうか。

 法の支配の対義語がわからないのではなくて、対義語という言葉の意味がわからなかったのではないか、ということが言われていた。これはさすがにないことだろうが、もしそうだとしたらちょっとまずい。野党の議員はていねいにも、対義語と言うだけではなくて、反対となる言葉だというふうにつけ足して言っていたので、首相もそこはわかったはずだ。

 憶測や、人格を否定する批判をするのがよくないというよりも、いまの首相による政権やいまの与党は、虚偽意識(イデオロギー)におちいっていることによって、化けの皮がはがれたりぼろが出たりしすぎではないだろうか。自分たちの化けの皮がはがれたりぼろが出たりしているのを、野党などの他の人のせいにするのはいかがなものだろうか。自分たちの(見せかけの)功績を言うのであれば、その反対である、嘘を言ったり悪いことをしたりすることの責任もまたしっかりと引き受けないとつり合いがとれない。無責任体制なのはしまつが悪い。

 参照文献 『語彙力を鍛える 量と質を高める訓練』石黒圭 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄訳 『「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人』青木人志爆笑問題のニッポンの教養 哲学ということ』太田光 田中裕二 野矢茂樹