結果がすべてだと言っておきながら、結果を受け入れようとしないのはなぜなのだろうか

 沖縄県では、アメリカ軍の基地を新しく移設することを問う県民投票が行なわれた。投票では反対が多数となる結果が出た。この県民投票の結果について首相は、政府としての評価を加えることはさし控えると言っている。

 政治においては結果を出すことがすべてだと首相はしばしば言っている。出た結果がすべてなのだとしたら、県民投票の結果を重く受けとめることはいることだ。ところが、政権にとって都合の悪い結果は受けとめないということになると、すべての結果を公平に受けとめることにはならなくなる。

 たしかに、政権にとっては、県民投票で反対が多数となった結果について、まともに受けとめることははばかられるのだろう。自分たちがおし進めていることにとって都合が悪いからだ。

 政府による遠近法とは異なる結果が出たのが、県民投票だろう。そうであるために、政権は県民投票の結果を軽んじようとしている。遠近法主義においては、国という集団の中にさまざまな遠近法があって、たった一つの正しいことがあるのではないという見かたが成り立つ。

 政権は、自分たちのおし進めようとしていることだけがただ一つとして正しいのだとするのではなく、自分たちとは異なる遠近法を受けとめるように努めるべきだ。そうするように努めることがいるのは、政権によるあり方が、虚偽意識(イデオロギー)におちいっているおそれが低くないからで、民意とは少なからずずれがおきてしまっているのではないだろうか。民意とは言ってもさまざまなものがあるのは確かだが。

 沖縄県辺野古は、地下の九〇メートルにとても軟弱な地盤をもつという。マヨネーズのような弱いものだとされる。それにくわえて新たに地震のおそれのある活断層があるということも言われている。さらに、海岸の近くであるために津波の被害のおそれがあると研究者の藻谷浩介氏は新聞の記事の中で言っていた。

 いまの政権が、沖縄県をうまく動かしたいのなら、一方的なやり方はまずい。動かすというと悪い言い方なのはあるが、これはデール・カーネギーの『人を動かす』からのものだ。

 カーネギーによると、人を動かすには三つの原則があるという。盗人にも五分の理を認めることと、重要感を持たせることと、人の立ち場に身を置くことだ。いまの政権は、(少なくとも)五分の理を認めることがなく、重要感をもたせていず、人(沖縄県)の立ち場に身を置いていないために、一方的で強引なやり方になってしまっていると見うけられる。