いまの与党にいる一部の議員は、必ずしも危険ではないものについて、いたずらに熱をもってさわぎ立てないで、冷静になることも必要なのではないか

 日本の植民地支配からの独立をめざす運動のおきた日を祝うことが、韓国で行なわれた。この祝う日に、韓国で日本人が危ない目に会いかねない。自由民主党の一部の議員は、日本人が韓国で危険な目に会いかねないということで、その危険さを言い立てたり、危険さを深刻なものとしたりしていた。

 たしかに、万が一ということはあるだろう。万が一韓国で日本人が危険な目に会うとしたら、よくないことはたしかだ。ところがじっさいにふたを開けてみると、まったく危険性はないといってよいほどだったのだという。拍子抜けをするとはこのことではないだろうか。

 このことをふり返って見るに、自民党の一部の議員が行なったことは、一〇〇パーセントまちがったことだったのかどうかはわからないが、危険さを見つもる参照点が高すぎたことはいなめない。危険さを見つもる参照点を高めにしすぎて、そこで固定させてしまった。もっと参照点を動かして、中くらいや低めであることをくみ入れることができた。

 ものによっては、危険さの参照点を高くしすぎるのは、大人の冷静さを欠くことになって、幼稚な印象をはたにおぼえさせることになる。もし危険なのであれば、危険だととらえることはいるのはたしかだが、色々と視点を変えて見ることができるのであれば、できるだけ視点を変えていくつもの見なし方をとるほうがまちがいを避けやすい。危険だということで、高めに参照点をとって固定化させるのは、ものによっては必ずしも適してはいない。認知のゆがみとなる。

 外交においてやってはいけないことは、大衆迎合主義(ポピュリズム)になって、他国を悪く言うことで自国民をあおり立てることだ。いまの与党や省庁には、他国を悪く言うことが見うけられるし、それによって与党は国民からの支持をとりつけようとしている。短期の利益に走っているのだ。自国と他国がぶつかり合わないようにして、ぶつかり合いのもとを少しでも減らすように努めるのが、与党の政治家のやるべきことだろう。危険をあおり立てる前に、それを少しでもやったらどうだろうか。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『選挙ってなんだろう 一八歳からの政治学入門』高村正彦 島田晴香ミシェル・フーコー』重田園江