N◯K には優秀な人や社会のことを考えている人がいるというのだが、組織として見たら、思い切り国家のイデオロギー装置になっていて、いまの政権を保つことに加担してしまっていて、(悪く言ってしまうと)権力の奴隷のように見うけられる

 N◯K のことを悪く言う。その悪く言われる N◯K には、すごく優れている人が少なくない。社会のことをよく考えている人たちは N◯K の組織の中に多くいる。そうであるのだから、その人たちのことを悪く言うことにつながるような、表面的な批判や悪口は言うべきではない。それを言っても誰も幸せになることはない。そうしたツイートがツイッターで言われていた。

 たしかに、N◯K の中には優れた人や、社会のことを考えている人たちはいるのかもしれない。それはそれとして、N◯K に問題がないのかと言えば、そうとは言えないのではないだろうか。

 N◯K には東洋による多神教のあり方がかいま見られる。国民の中には右の人も左の人もいるわけだが、それらの人たちのどれもに顔を向けることによって、中途半端なあり方になってしまう。総花的になる。一つの袋の中に色々なものが詰めこまれていて、一見すると色々な人を満足させられるかのようだが、核となるようなものがない。

 N◯K には駄目なところがあると見うけられるが、これはいまの首相による政権にもまた見られるものだ。いまの首相による政権もまた、N◯K のように、一つの袋の中に色々なものを入れていて、一つひとつが中途半端で総花的になっているし、核が見うけられない。核となる理念を語れていないのではないだろうか。なぜ語れないのかというと、これといった確たる理念がないからではないか。権力を保ちつづけることが自己目的化してしまっている。

 N◯K が駄目であるとして、それを改めるためには、時の政権の顔色をうかがうことをしないようにすることがいる。大に事(つか)える事大主義になるのではないようにして、権威主義とはならないようにしてほしいものだ。

 いまの N◯K は、大手の報道機関が理想としてはもっているべき自律性をもっておらず、時の政権に大きく干渉を受けることで他律性に堕していると見られる。時の政権と距離をとれてはいなくて、一体化してしまっていることが危ぶまれる。国家の公(領域の公)にひれ伏すのではなく、距離をとって対象化するように少しでも努めたらどうか(もしかしたら多少はやっているのかもしれないが)。

 参照文献 『公私 一語の辞典』溝口雄三