決意を言ったのにすぎないということにおける、のぞみ(wish)と確たる意思(will)のちがい(のぞみにすぎないものを、確たる意思のように見せかけていることが少なくない)

 年金の不正がおきたさいに、最後の一人まで何とかするのだと首相は言った。かなり以前のものではあるが、このことを野党の議員から言われたのを受けて、それはたんに決意を言ったのにすぎないと首相は答えた。

 決意ということであれば嘘をいくら言ってもよいのかと野党の議員は応じている。決意を言うのならちゃんとやる、ちゃんとやらないのなら(大ぶろしきを広げるようなことは)言わないようにすることだ。こう野党の議員は言ったが、これは野党の議員の言うことにそれなりにもっともなところがある。

 決意を言ったのにすぎないということだが、この決意というのはのぞみ(wish)であって、確たる意思(will)ではないということだろうか。最後の一人まで何とかできればよいなあということであって、何がなんでも何とかするのだという確たる意思ではなかったということだ。

 年金の不正については、そのときに発覚したのはほんの氷山の一角にすぎず、じっさいにはもっとたくさんの悪いところが探せばあるのだというふうに一説には言われている。くまなく不正を探し出すことは行なわれず、また行なえないともされ、時間が経つことでうやむやになった。年金の管理は、いい加減さやずさんさによっているおそれが低くはないが、これはいまの政権のあり方にも当てはまる。無責任なのもある。

 決意を述べたのにすぎないというのは、表で言っていることと、裏によるものとがちがうということを示す。かつての日本では、戦前や戦時中において、権力が国民にたいして表で言っていたことと、裏によるものとがずれていたという。大本営発表はその大きなことの一つだ。それで国民はだまされたことが、戦争に敗戦したあとになってわかった。

 かつての国による国民への情報管制や情報操作をほうふつとさせることが、いまの政権に見られるのは、たんなる個人的な見まちがい(とらえちがい)だろうか。大手の報道機関は、政権からにらまれているせいか、政権を批判することにおよび腰だ。ただ批判さえすればよいというものではないが、空気を読んだり忖度をしたりして権力の奴隷になって丸めこまれてしまうのはまずい。

 のぞみにすぎないものを、確たる意思であるかのように言うのを、まったくするなというのではないが、それの度がすぎるのであれば、許容しがたいものだ。言ったことをちゃんとやるのなら内実がともなっているが、決意は言うがしっかりとやらないというのでは表面のうわべの効果に走っていると言わざるをえない。

 参照文献 『損得で考える二十歳(はたち)からの年金』岡伸一