国の政治家と報道機関の記者との相違点と共通点

 国の政治家は国民から選ばれている代表だ。かたや報道機関の記者は(民主主義の形式の正当性において)国民の代表とは言えない。そこは相違点となるところだ。国の政治家と報道機関の記者のちがいではなく共通するところはと言えば、それはともに代理という点にあるのではないだろうか。

 国の政治家は国民の代表であるとはいえ、それは国民の意思を代理しているということにすぎない。国民の意思をぴったりと代理しているかといえば、そんなことはない。ずれがはなはだ大きい。選挙制度では小選挙区制がとられているが、これは選ばれる政治家にそうとうな下駄が履かせられることになるから、じっさいの力より以上のものを与党の政治家が持ってしまう。

 国の政治家は、国民の代表であるとは言うものの、とくに与党の政治家は大きく下駄を履かせられているのだから、ごう慢になるのは筋ちがいであって、頭を低く下げることがいる。じっさいの力より以上のものを与えてもらっていることをくみ入れて、国民の意思との(大きな)ずれをいつも気にしているくらいでちょうどよい。でないと虚偽意識(イデオロギー)におちいる。

 報道機関の記者は、国民から選ばれた代表ではないと言うものの、権力を批判するさいに、自信をもってよいのだし、なおかつ謙虚さを忘れないようにできればさいわいだ。権力にひれ伏してしまうのであればむしろ害になる。肝心なのは、できるかぎり報道するさいにおいて正しく考えるようにして、それを国民にうながすことができるようになればよい。

 国民の代表とはいえ、国の政治家が言うことは結論とは言えず、仮説にとどまっている。それを雨だれのようにただ垂れ流す報道(N◯K などに見られる)は、国民に益になるとは見なしづらい。権力をもつ国の政治家が言うことは結論ではなく仮説にとどまるのだから、たえずそれを検証する姿勢が欠かせない。一つひとつを十分に検証することはむずかしいだろうけど、そのまま素直に受け入れてしまうことはやめるようにしたいものだ。なぜそう言えるのかや、具体的な証拠(エビデンス)はあるのか、などの点を確かめられる。

 いちばん危ないのは、国民の代表である与党の政治家が、白を黒とするようなあいまいで矛盾したことを言うことだ。たとえばではあるが、戦争は平和であるとか、虚偽は真実であるといったような、言葉の矛盾した使用をし出したら、きわめて危険な兆候だ。この兆候はすでにはっきりと出てしまっているのではないだろうか。政権や与党は、社会活動を行なうのにおいてそぐわない発言をしているのをすぐに改めないと、国が駄目になりかねない。

 国民を代表する国の政治家であろうと、または報道機関の記者であろうと、情報が歪曲されることがある。国の政治家であれば、自分のことを正当化するためのカタリを用いるのがある。報道機関の報道では情報の偏向などがおきることがある。

 情報の歪曲にはこうしたものがあるという。偏向や誇張(不当な一般化を含む)や虚偽や単純な事実の誤りやでっち上げや情報管制や情報操作だ。情報管制や情報操作は、戦前に見られた大本営発表のようなものだ。

 与党の政治家は、報道機関や記者のことを言えたものではなく、自分たちが情報をでたらめに用いているのだから、まず自分たちから改めるようにすることがいる。他人のことをとやかく言えたものではない。報道機関の報道が完ぺきに正しいものではないのはあるにしてもである。

 参照文献 『正しく考えるために』岩崎武雄 『政治家を疑え』高瀬淳一 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『考える技術』大前研一 『使える!「国語」の考え方』橋本陽介 『Think 疑え!』ガイ・P・ハリソン 松本剛史訳 『日本語の二一世紀のために』丸谷才一 山崎正和 『頭のよくなる新聞の読み方』正慶孝