自国のよさと、近隣国の悪さを、具体論と抽象論によって見てみたい

 A 国の人は馬鹿だ。A 国の人は悪い。いっぽうで B 国の人は賢い。B 国の人はよい。こう見なす。自分が B 国の人であることからこうしたことが言われることがあるが、これは具体による見なし方だ。

 具体とはちがい、抽象によって見ると、自分がもしも B 国の人ではなく A 国の人であれば、ということができる。もし自分が A 国の人であれば、自分は馬鹿であるし悪いことになる。自分のことをおとしめることになる。

 具体によるのが正しくて、抽象によるのはまちがっている、とは必ずしも言えそうにない。具体はまちがっていて、抽象が正しいことがないではない。もし具体がまちがっていて、抽象が正しければというのは、それそのものが抽象によるものではあるが、この抽象によるものがもし正しいとすれば、自分は A 国の人であることになる。

 自分が A 国の人ではないということは、必ずしも言い切れないのではないか。無知の知ということがあるから、自分が知らないだけであって、じつは自分は A 国の人であるけど、そのことを知らないだけかもしれない。

 自分は A 国の人かそれとも B 国の人かというのは、〇か一かということではなくて、ていどによるということがある。ていどとして、A 国の人でもあるし B 国の人でもあるということだ。人間というのはみんなアフリカ大陸から各地に散らばっていったのだし、もととなるものは同じだ。

 A 国と B 国が地理として近いのであれば、ずっと閉じこもっていたのでない限り、内と外で交流がされてきたとするのがふさわしく、混ざり合っているととらえられる。A 国と B 国が混ざり合ったものとして、A 国と B 国の人はあることになる。A 国の悪さや B 国のよさは、修辞(レトリック)によるものだ。どんな国であっても、よいところもあるし悪いところもあるのが現実だから、よいだけまたは悪いだけの国があるとは見なしづらい。

 参照文献 『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』森博嗣 『トランスモダンの作法』今村仁司