悪夢と堕ちること(呪われた部分)

 旧民主党の時代は悪夢のようだった。首相はそう言っていた。旧民主党が政権をになっていた三年の期間は、決してすべての人が幸福になることにはならなかった。かといって、すべての人がもれなく不幸だったのではないだろう。

 人は天使ではない。人が何かをなそうとするさいに、まちがいなくうまく行くとはなりづらい。堕ちてしまうことがある。それは人間であるがゆえのことであって、なおかつ人間が何かをなそうとするがゆえのことだ。人間がよいことをなそうと挑むことによって失敗することがある。成功することはそう多くはない。

 気をつけるべきなのは、何かに挑むことによって堕ちてしまうことであるのとともに、挑むべきことに挑まず、堕ちもしないことだ。または、堕ちているのにそれを認めないで隠してしまうことだ。そう言えるのではないだろうか。

 人間は天使のように純粋なものではないために、堕ちてしまうことがあるし、失敗することがある。まちがいをおかすことが避けづらい。限定された合理性をもつ。人間がなすことは不純であって、先行きを見通すことにおいては不透明だ。

 天使主義の誤びゅうにおちいることを避けるようにしたいものだ。説明は不要だとして説明責任(アカウンタビリティ)を果たさないのは政治において適したあり方とは言えそうにない。純粋動機主義によって、かくあるべきただ一つの正義(当為)をなそうとはしないようにしたい。

 天使のようであることはできず、堕天使になることは避けづらいのだから、堕ちてしまうことを認めて、堕ちてしまった過去のこと(歴史)を認めることができれば、それをふり返ることによってこれからのあり方に生かしやすくなる。

 まちがい主義というのも大切だ。正しさとまちがうことがある中で、正しさよりもむしろまちがうことのほうが大切だ。これは評論家の加藤典洋氏や鶴見俊輔氏によるものだ。

 哲学者の C・S・パースは、まっすぐに最短距離で真理には近づくことはできないという。最短距離ではなく、まちがいをおかしつつ、少しずつまちがいが少なくなって行く。そういった道のりを歩むことになる。直線ではなく曲線を歩む。肯定と否定といった対立点をつくるなどして、畳長性(redundancy)をくみ入れておく。

 どうしても失敗することが許されないことはあるが、そうではないのだとすれば、一〇〇点をとって成功をおさめるのではなく〇点をとることが悪いことだとは言えそうにない。〇点をとって悪いということは必ずしもない。一〇〇点をとって成功しなければならないとか、〇点をとって失敗してはならないというのは、ものによっては必ずしも当てはまらないことがある。

 作家の安部公房氏の「終りし道の標べに」には、こうした一節がある。「一切は常に、あらゆる瞬間に同時に、これから落ちるものであり、落ちつつあるものであり、落ちてしまったものなのだ」。

 参照文献 『天使とは何か』岡田温司 『笑いと哲学の微妙な関係 二五の笑劇(コメディ)と古典朗読つき哲学饗宴(つまみぐい)』山内志朗 『哲学塾 〈畳長さ〉が大切です』山内志朗 『小さな倫理学入門』山内志朗靖国史観』小島毅現代思想を読む事典』今村仁司編 『一ミリでも変えられるものなら』上原隆 『〇点主義』荒俣宏