いまの首相や政権による、修辞(レトリック)を用いた自分たちに都合のよい経済や社会の見なし方

 日本の経済はよくなっているのか。景気はよくなっているのか。社会のあり方は、国民のみなが幸せで安心して生きて行けるようになっているのか。いまの首相による政権は、自分たちの経済政策などの成果をほこっている。成果が出ていて、日本の経済や社会はよくなっているというのである。

 首相や政権は、日本の経済や社会がよくなっていると言うが、この定義づけ(性格づけ)はそのまま受けとるわけには行きづらい。この定義づけは、統計の不正や悪用がおきていることから、客観によるものとは言いがたく、修辞(レトリック)による色合いの濃いものだということができる。一〇〇パーセントまちがったものであるとは言えないにしてもである。

 権力や権威にものを言わせて、いまの首相や政権が自分たちにとって都合のよい定義づけを下すにしても、それは修辞によるものであって、主観によっているのがある。客観はまた別だというわけだ。

 議論においては、発言をする者にとってよくはたらく定義づけがとられる。これを説得的定義と呼ぶのだという。発言をする者の持つ信念や理念や価値観や経験などをあらわす。それによってものごとを改めて定義する。

 首相や政権による修辞の定義づけをかっこに入れて見るようにすれば、さまざまな見なし方が成り立つ。人によっては豊かな生活を送れている人もいるだろうし、そうではなく苦しく不幸な生活を強いられている人もいる。それらのどれもがその人にとっては正しいものだ。人によってとり巻いている条件がちがう。割り切ることができないありようになっている。

 よいというふうに見ればそう見ることもできるし、悪いというふうに見ればそう見ることもできる。表面としては一見すると充実しているように見えるとしても、その中には空虚でうつろな響きを抱えている。その空虚でうつろな響きに目を向ければ、表面の充実さはどんどんメッキがはがれて行く。犠牲(や差別)によって秩序が保存されているのだ。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『理性と権力』今村仁司