歴史修正主義の修正(歴史相対主義の相対化)

 歴史修正主義を修正する。まず通説とされることがあって、それに修正をかけて、独自の説となるものをとる。この独自の説こそが、通説とされるものよりも本当は正しいものだということは、ないことではない。そうかといって、独自の説を絶対化するのはよいことではない。独自の説は、通説とされるものを修正してできたものだが、その独自の説もまた修正するようにする。

 通説とされるものだけが正しいかはわからないので、歴史修正主義(歴史相対主義)によって独自の説をとることがまったくもっていけないこととは言えそうにない。実在という点においては、通説とされるものを含めて、色々な説がとれる。その中において、信ぴょう性のちがいはあるだろうから、そこは無視することはできづらい。

 信ぴょう性や客観性ではなく、国に益になるといったようなことで、独自の説が単一のかくあるべき正義とされるのであれば、それにたいして修正をかけるようにして、絶対化するのではなく相対化することはいるものだ。いかなる歴史の説であっても、人為の筋書きによる物語であることは避けられそうにない。

 どのような歴史の説であっても、歴史をじかに見ているのではないのだから、生の歴史そのものを示しているものではなく、残された痕跡を手がかりにして形式(物語など)に置き換えた間接のものだ。生の歴史の事実そのものだとは言えそうにない。人間の手が加えられて加工されている。現前(プレゼンテーション)とは言えず、再現前化(リプレゼンテーション)されたものだ。

 現前と再現前(化)は相対的なちがいということも成り立つ。臨場感(プレゼンス)の度合いのちがいということがある。質ではなく量のちがいとしてとらえられる。たとえ現前ではなく再現前(化)によるものであっても、そこに臨場感を高く感じるのであれば、それはその人にとっては現前に近いものだということになる。生の現前であっても、それを受けとる人の脳の中においてあるていどは再構成されて認識されるので、再現前(化)がほどこされているものだ。

 人々をとり巻いている環境においては、自分ですべてを見聞きして知るわけには行かず、報道機関による報道をたよりにするしかない。それによって疑似環境が形づくられる。環境と疑似環境は相対的なちがいによっていて、この二つのあいだにある分類線は揺らいでいる。疑似環境として環境をとらえている。とりちがえがおきると、別乾坤(別世界)が乾坤(世界)に取って代わることがある。別乾坤に離脱(逃避)したり、乾坤に参与したりする。事実と価値を区別できずに、事実に価値が入りこみすぎると虚偽意識(イデオロギー)におちいる危険があるのは確かだ。

 できごとが再現前化されることで、物語として構造化されて、一回性のものが反復できるようになる。複数の人々によって共有されることで、物語の担い手や物語の効果(それぞれの立ち場のちがい)がおきる。人がいて、物語があるのではなく、物語が先立っていて、その担い手や効果として人がある、といったあり方だ。これは構造論(関係論)によるとらえ方だ。一つの上位(メタ)の物語と言えるものではあるかもしれない。

 参照文献 『使える!「国語」の考え方』橋本陽介 『歴史という教養』片山杜秀現代思想を読む事典』今村仁司編 『構造主義がよ~くわかる本』高田明