強いオオカミ(政権や与党)と、弱い羊(野党)という図式になることの危なさがある(野党にもまちがっているところや非生産的なところはあるだろうが)

 政権や与党のあげ足とりばかりを野党はやるな。政権や与党のことを、野党は批判ばかりするな。そうではなくて、野党は自分たちで国民にたいして、政治や社会のよい方向性を示すことがいる。

 与党と野党とを比べると、与党のほうに分がある。野党は劣っている。はたしてこう言えるものなのだろうか。政権や与党のやっていることは、ほめられたものではないことが少なくない。どうしようもないところがある。かたや野党にもほめられたものではないところがある。

 与野党のどちらか一方だけが抜きん出てすぐれていたりどうしようもなかったりするのではなく、どんぐりの背くらべといったところだ。近くから見たらほんの少しくらいは差があるかもしれないが、遠くから引いて見たらどちらもさしたるちがいはない。

 与党の足を野党は引っぱっているところはあるだろう。野党は必ずしも生産的なことをしているとは言えそうにない。足を引っぱられる政権や与党はどうかというと、そもそも政権や与党それ自体としておかしいところがある。野党がいなくて、野党がおかしなことをしないとしても、政権や与党はそれ自体としておかしさや駄目さをかかえている。

 国民にたいして政治や社会のよい方向性を野党は示せていない。これは野党が悪いということではなく、そもそもこれからの世の中は右肩上がりにはなりづらい。右肩上がりの視野を持ちづらい。右肩下がりになって行くことが避けづらい。国民のみんなに富や利益を分配するのではなく、不利益を分配せざるをえない。与党も野党も、国民にたいして、不利益を分配するということをきちんと言っていない。負担を言うのは避けて通る。負担の必要性を言うと国民からの反発があるからだ。

 負担の必要性などねつ造だ。財務省などによる陰謀理論だ。やろうと思えば右肩上がりになるのはまちがいない。そう見なすものもあるだろう。それについては、色々な見なし方ができるものではあるかもしれない。

 負担の必要性ということにおいては、負担と給付(受益)というのは組みになっているものであって、負担なしに給付だけというのはできづらい。入り(収入)と出(支出)の組みがあって、入りよりも出のほうが多ければいずれ全体が破綻するのをまぬがれづらい。破綻を避けるには、入りを増やすか出を減らすかの二つの道がある(しかない)。これは財政均衡の発想だから、この発想そのものがまちがっているという見かたもとれるかもしれないが。

 これからもいまのままで、いまの政権やいまの与党に日本の政治や社会のかじ取りを任せつづけてよいのだろうか。それにたいしては疑問を感じざるをえない。いまの政権やいまの与党が戴冠(たいかん)しつづけることがよいとはいえず、奪冠することがいるのではないだろうか。奪冠するとなると政局や闘争となる。

 政局や闘争は不安定さをまねくものではある。民主主義というのは小出しに不安定さをとるものだ。不安定さが溜まって大きな不安定となることを避ける仕組みだ。奪冠せずに、政局や闘争をしないとすると、それはそれでまずいことになることがある。弱い羊どうしの自由と信頼にもとづく民主主義ではなく、強い(悪い)オオカミにすがる権威主義(新権威主義)のあり方になる。

 参照文献 『政治家を疑え』高瀬淳一 『リヴァイアサン長尾龍一 『武器になる思想 知の退行に抗う』小林正弥 『歴史という教養』片山杜秀 『政治の哲学 自由と幸福のための一一講』橋爪大三郎