体罰には教育の効果は見こめないということが一説には言われている

 体罰の会なるものがあるという。この会によると、体罰は教育だということだ。叱るよりほめろでは強い子どもには育たない。子どもには体罰を受ける権利がある。こう言われている。

 子どもには体罰を受ける権利があるということだが、それを言うのなら(体罰の会の言わんとすることからすると)、どちらかというと権利よりも義務なのではないだろうか。権利というのは可能性ということであって、やってもよいしやらなくてもよい。どちらであってもよいものだ。権利を行使するかどうかは子どもの意思に任されることになる。

 義務ということでは、努力目標によるものと具体の義務とがある。いずれにしても、子どもに体罰を受ける権利があるとして、大人には体罰を行なう義務があるということになると、話がとても変である。

 体罰ということを抜きにして、子どもの人権(権利)ということが重んじられるべきだろう。子どもの人権が侵害されていることを重く見て、その不正義を改めるようにすることが必要だ。体罰を持ち出すことはいらないものだろう。

 何らかの理由によって落ちこぼれて(ドロップアウトして)しまった子どもや未成年には、社会がやさしく温かい手をさし伸べられるようなゆとりがあるのが理想としては求められる。子どもや未成年は何らかの理由で落ちこぼれてよくない方向に走ってしまうことがあるが、社会の中の弱い人たちに、社会のかかえる病理があらわれ出るのがある。弱くて可傷性(ヴァルネラビリティ)をもつ人たちが生きやすいことが、社会の全体の生きやすさにつながる。

 子どもを強く育てるためには、ほめるのは駄目で、叱ることがいるということだが、ほめるか叱るかという二分法ではなく、子どもの言うことを聞くというのはどうだろうか。ほめたり叱ったりするのは(大人が)働きかけることであって、それはそれであってもよいことだが、それとはべつに受けとめるということがあってよいことだ。

 体罰というのはあまり効果のあるものではないのだという。教育の効果としては、正の効果を持たず、相関するものではないという説がある。これは経済学者の大竹文雄氏による。体罰に効果があるというのは思いちがいであって、平均回帰の認知の歪みであるということだ。体罰をやることによって効果があるように見えるのは、たんに平均に回帰しているだけであって、体罰をしなくてもそうなる。

 参照文献 『ほめるな』伊藤進 『論理的に考えること』山下正男 『法に触れた少年の未来のために』内田博文