質問をすることもいるし、批判をすることもいる(政権の言うことややることについて質問や批判をすることは必要であり可能である)

 事実にもとづかない質問はやめよ。いまの政権の官房長官は、記者にたいしてそう求めている。これにはうなずくことができづらい。事実にもとづくものをかりに具体のものであるとすると、それとはちがう抽象のもの(事実にもとづかないもの)にも価値があるととらえられる。

 ものごとというのは色々な角度から見たほうが益になるのであって、事実にもとづくということに限定することはいらないものだろう。事実にもとづくという具体に限定すると視野がせばまることになるから、視野を広げるようにして、抽象のものをくみ入れたほうが視野狭窄におちいるのを防げる。

 事実にもとづいていても大した価値のない質問はあるだろうし、事実にもとづいていなくても価値のある質問はあるのだから、価値のある質問には向き合うようにすることがのぞましい。

 いまおきていないのなら事実ではないが、これからおきかねないことがある。すでにあることであれば、ある(すでにある)問題だが、それだけではなくて、あらしめる問題や、あるかもしれない問題を探って行く。そうして探って行くことが大事なのであって、時制でいうと、すでにあることは顕在化した過去のものだが、いまだ潜在化しているのは現在や未来のことだ。現在や未来の事実ではないことを見ることは有益だ。

 確実にこうだと言えるのではなく、ものごとには不確実さはまぬがれないのだから、たとえ事実ではないとしても、おきかねないことやおきることが見こまれることなのであれば、それを質問することは価値をもつことがある。そういったことはなるべく認めるようにした方が、見落としを防ぐ点でよいことである。

 間接民主主義においては、政権をになう政治家と国民の思いとがぴったりと合うのではない。ズレがおきざるをえない。政権をになう政治家は嘘やごまかしをすることがめずらしくないのだから、そこを批判することがいる。そのためには、質問をしないか質問をするかは大きなちがいだ。政権に忖度せず、空気を読まない記者は、たんなるあげ足とりに終わるのでないのであれば権力への監視の役をはたすことがのぞめる。

 参照文献 『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』森博嗣 『問題解決力を鍛える』稲崎宏治 『質問する力』大前研一 『議論のレッスン』福澤一吉 『ダメな議論』飯田泰之