二重基準(ダブルスタンダード)と、類似からの議論と、(より強い理由による)比較による議論と、人に訴える議論で見られる

 与党の議員の、お金の不正なやり取りの疑惑がある。野党の議員はこれを批判していながら、その野党の議員にもまたお金の不正の疑惑が持ち上がった。与党の議員のことを批判していながら、野党の議員は自分のことについては問題がないとするのは、二重基準(ダブルスタンダード)にほかならない。そういった声があげられている。

 野党の議員に、まったく非がないとは言えそうにない。完ぺきに悪くはないということはできづらいが、それであれば、野党の議員よりもより悪いのが与党の議員だということが言える。より強い理由によって、野党の議員よりも、与党の議員のほうが責められるべきである。

 野党の議員のお金の不正では、額が一万円と少額である。外国の人は献金はできないということわりがあるのにも関わらず、外国の人が献金したのだから、何かのまちがいがおきたというとらえ方が成り立つ。そのいっぽうで、与党の議員によるお金の不正では、二〇〇〇万円の口利きの疑いが持たれている。お金の額のケタがちがう。与党の議員は、元秘書が勝手にやったということで、秘書のせいにしている。

 かりに、野党の議員と与党の議員のお金の不正を、類似したものと見なすのであれば、比較による議論によって、より強い理由として、野党の議員よりも与党の議員のほうこそが責められるべきではないだろうか。それに、与党は政治の権力をになっているのだから、野党よりも責任はより重いものだろう。そこにも強い理由がはたらく。

 二重基準になっているのだから野党の議員は悪い、という声は、まったくまちがったものだというのではないだろう。完ぺきにまちがったものではないだろうが、これはお前もそうだろという人に訴える議論になっているのは確かだ。野党の議員に非があるのはあるかもしれないが、より非があるのは与党の議員のほうだというのがあるし、一つひとつのお金にまつわる不正の疑惑を個別に見て行くようにすることがいる。個別に見れば、おきたことはちがうことなのだから、ちがうようにあつかったとしても、(中身が類似していないのであれば)必ずしも二重基準には当たらない。

 参照文献 『論理病をなおす! 処方箋としての詭弁』香西秀信