いまの首相による政権といまの与党を手段であるとして、それと目的となるものがあって、手段がどうかと目的がどうかを見られればよい(手段は替えがきくし、目的も替えがきく)

 代えが見あたらない。めぼしい代わりがいない。代わりがいないのだからしかたがない。そうしたことで、いまの首相による政権やいまの与党が選ばれているのだろうか。いまの政権やいまの与党のほかに、めぼしい代わりとなる者が野党などにいないというのだ。

 いま政治の権力を担っているのは、いまの政権やいまの与党に当たるわけだけど、これを手段であるととらえられる。手段と目的の組みで見られる。目的となるものを、かりに、日本の国や社会をよくする、としておこう。この目的を達するための手段として、いまの政権やいまの与党がいる。

 目的は、かりのものである、日本の国や社会をよくするというのではなく、ほかのものでもよいわけだけど、かりにそれを目的にするとして、手段というのは、いまの政権やいまの与党でなくてもとくにかまわないものだ。目的さえ達せられればよいのだから、いまとっている手段が駄目なのであれば、ほかのものに変えてしまえばよい。いまとっている手段を変えるのは、見切りをつけるということだ。

 手段である、いまの政権やいまの与党は、目的を達するのにそぐわないのであれば変えるのがふさわしい。目的にそぐわないのにいつまでも変えないでいるのは、手段の目的化になりかねない。

 手段である、いまの政権やいまの与党を変えてしまったら、いままでよりもさらに悪くなってしまう。そうしたことで、手段を変えられないことになるのは、手段を固定化させてしまうことになる。これは誤りのもとになることがある。手段を固定化させて変えないでいることで、かえって悪くなっていってしまうことになりかねない。手段にたいする参与(コミットメント)が上昇することによって、ゆでがえる現象や学習性無力感が引きおこされることがある。

 いまの政権やいまの与党という手段にたいして、それが目的にそぐわないのであれば、適したときに離脱(デタッチメント)をして見切りをつけることがいる。それで目的にそぐう手段をとるようにする。手段というのはどんどん変えていってもよいものであって、よい着想が出てくるまで変えつづけてもよいくらいだ。悪い手段にまちがって引っかかって、見切りをつけられずに、思いちがいをしてしまうよりかは、思い切って手段を変えてしまったほうがよいことがある。目的こそが大事なのがある。手段と目的を絶対化させずに、相対化させられる。

 参照文献 『正しく考えるために』岩崎武雄