人間が人工の手を加えて開発することで、国(自然の環境)が壊れてしまうのであれば、それをさせないようにするのは、国(器世間)を守ることだととらえられないではない

 国の自然や環境を壊す。日本の国(時の政権)をよしとすることに反するのは反日売国と呼ばれることがあるが、それとは別に、自然や環境を壊すのは壊国だというのがある。

 国を世間と置き換えられるとすると、世間には衆生世間と器世間があるという。衆生世間の器となるのが器世間で、自然の環境に当たるものだとされる。この器世間を壊すのはものによっては壊国に当たると見られる。

 自然や環境を守ることを訴えるのは、器世間を壊す壊国をさせないようにすることであって、これを愛国と言うこともできるのではないだろうか。自然の環境である、山や川や海などをやたらに開発して壊さないようにして、必要がないのであれば、できるだけ自然のままに残す。

 器世間を壊す壊国は、機械論による物質をよしとするものだ。それがまかり通って来ていまにいたるのが日本の社会だ。機械論によって、自然の環境に人工の手を加えて開発することが、絶対によくないことだとは言えそうになく、よいところがあるのはたしかだ。よいところはあるが、悪いところがあるのは見のがせない。

 自然の環境に人工の手を加えてしまうと、自然のままに残しておくことができず、生きた自然が死んでしまう。死んだ自然になってしまう。死んだ自然になると、自然の恵みが損なわれてしまうし、自然の中で人間が味わえる効用(楽しみ)がうばわれることになる。

 機械論ではなく、有機体(生気)論からすると、人間が開発によって人工の手を加えるのはできるだけしないようにして、自然をそのままに残しておくほうが、自然を死なせることなく、生きた自然のままに残しておけるし、その中で人間が効用を得て楽しむことができる。

 参照文献 『川からの眺め』野田知佑