言論弾圧と錯誤(事実と違法)

 言論の弾圧だ。そう言うさいに、はたして本当にある人の言論や表現の機会(場)が不当にうばわれたと言えるのか。事実と違法の二つから見ることができる。

 事実として言論の弾圧が行なわれたのかどうかがある。改めてよく見てみれば、思いちがいがあって、事実をとらえちがえているということがある。言論の弾圧が行なわれたのではなくて、処置のようなものが行なわれただけだとすると、そこまでおかしいこととは言えそうにない。その処置が適したものであればということではあるが。

 違法ということで言うと、言論や表現を行なうのをテクストだとして、それをとり巻く文脈(コンテクスト)がある。文脈というのは場である。場の決まりにしたがって、その中で言論や表現を行なう。もし場の決まりに反したのなら、違法ということになって、そこから退場させられることがある。決まりに反したのであれば、言論の弾圧だとは必ずしも見なせそうにない。

 言論の弾圧だと言うさいに、それを改めて見れば、事実として本当にそうなのかどうかがある。それに加えて、その場の決まりを破ったかどうかの、違法かどうかがある。事実をとりちがえていたり、決まりを破っていたりすることがあるから、そういったさいには、言論の弾圧がじっさいにはおきていないことがある。そこまで行かないで、抑圧があるというだけのこともあるだろう。

 言論や表現は、宙に浮いたものではなくて、どこかの場の中のものだとすると、その場の文脈(コンテクスト)との関わりがおきる。自由のほかに、平等などのほかの価値との関わりがあるし、また自由においては、ほかの人の自由とのかね合いがある。それらについてを一つひとつ見て行くことで、何がどうだったのかをとらえられる。

 言論や表現の自由が、完ぺきな自由ではなくて、そこからさし引かれる。それをもってして、言論弾圧だということはできそうにない。自由が一部において制約されることと、言論弾圧がされることとは、分けて見られるものだ。たとえ一部であっても自由が制約されるのであれば、言論弾圧が行なわれている、とは言えないものである。

 思想家のツヴェタン・トドロフ氏によると、自由主義や民主主義においては、権利としての自由(その他の権利にも)には一部に制約がかかるのが現実だという。まったく制約のない完ぺきな自由を保障するものではないのだ。もしそれが保障されるのであれば、社会の中が無秩序や混沌になってしまう。

 言論や表現の自由はすごく大事なものであって、それをないがしろにするのはおかしいことだ。そう言うことはできるし、当たっているものである。当たっているのはまちがいないが、絶対論ではなくて相対論で見ることができるのがある。白か黒かの二元論とは別に、連続観である決疑論(カズイストリ)でも見られる。

 言論や表現の自由はすごく大事な価値ではあるが、その一つの価値があるのではなくて、それとはちがったものもある。自由ということの中に矛盾があるのもたしかだ。不完全性定理で言うと、あらゆるものの中には矛盾が含まれるのは避けられない。自由の中には不自由が含まれている。

 もともと自由という語はさまざまな意味あいがあるだろうから、きちんと定義をしないで用いることで、あいまいなことを言ってしまっているのはあるかもしれない。

 言論や表現の自由があるからといって、それを根拠にして、だからどのような言論や表現でも許されるのだ、ということは導けるとは言えないものだ。できるかぎり言論や表現の自由があったほうがよいのはまちがいがない。その自由はできるかぎりとられたほうがよいのはあるが、無条件であらゆる言論や表現がよしとされるのかと言うと、そこまでは言えないのがある。条件がつく。たとえば、条件として、差別や憎悪表現(ヘイトスピーチ)はよくない、といったものがある。