死のうとしているのではないのだし、(たんに)ハンガーストライキをやるつもりというのではなく、じっさいにやったのだから、大したものである(国の権力にこびへつらう政治家や役人や報道機関よりもよほど立派だ)

 沖縄県で、県民投票が行なわれるが、五つの市はそれを行なうのをこばんでいるという。新しいアメリカの軍事基地を沖縄県に建てることを問う県民投票が、五つの市で行なわれないと、県のすべての有権者が投票できなくなる。

 五つの県でも投票できるようにするために、ハンガーストライキが行なわれた。このストライキは一人の男性によるものだが、ドクターストップがかかっために一〇五時間でとりやめとなった。

 ハンガーストライキを行なった男性のそばには医療の関係者がついていたようだが、これについて、死ぬ覚悟でやらないと駄目だという声が投げかけられている。死ぬつもりでハンガーストライキをやらないと駄目だというのだ。

 医療の関係者をそばにつけず、ひたすらものを食べないようにして、死ぬつもりでハンガーストライキをやらないと、まったく意味をなさないのだろうか。そうとはいえないものだろう。ハンガーストライキのやり方の問題ではなく、問題があるから、それを何とかするための手段の一つとしてハンガーストライキを行なう。

 手段としてハンガーストライキをやるのはあまりよくないというのはあるだろう。それは手段としてのハンガーストライキの問題であって、ハンガーストライキのやり方の問題とはまたちがう。

 問題(争点)となることがあって、それを何とかするために男性はハンガーストライキを行なった。陰でものを食べていたのではないのだから、偽りがあるものとは言えそうにない。死ぬつもりでないと駄目だといったような、手段であるハンガーストライキのやり方ではなく、問題となっている争点に目を向けることがいる。

 手段としてハンガーストライキを行なえば、それで主張が通るというものではないけど、肝心なのは、問題となっている争点にある。ハンガーストライキを行なった男性が、それなりに筋の通った言い分を持っているのであれば、それを無視してしまうのではなくて、受けとめるのがあってほしいものだ。それが民主主義に適うことになるのであって、手段としてのハンガーストライキ(のやり方)がどうかというのとはまたちがった論点だ。