選挙は戦いであって、戦いに勝った者は何でもやってよい、というのには疑問を感じざるをえない

 選挙で選ばれたら、与党や政権は何をやってもよい。選挙で勝って国民から支持をされたら、政権をになう政治家は自由にやりたいことをやってよいのだという。選挙は戦いといっしょであって、戦いに勝ったら勝った者はやりたいことをやれる。テレビ番組で出演者はそうしたことを言っていたが、この見なし方にはうなずきづらい。

 たしかに、選挙は戦いに似たところはあるのだろう。戦いであれば、勝った者がやりたいことをやる資格を得るということも中にはある。しかし、選挙と戦いがまったく同じだとしてしまうと、目的と手段が転倒して、勝ちさえすればよいということになる。じっさいにそうなってしまっている。

 選挙と戦いは似たところはあるものの、ちがうところがあるから、まったく同じだというふうには見なしづらい。戦いであれば、勝った者がえらいということになることがあるが、選挙においては、それとまったく同じとは言えそうにない。えらくない人が選挙に勝ってしまうことがある。ふさわしくない人が選ばれてしまうことがある。いまの大衆迎合主義(ポピュリズム)の中ではそれがおきがちだ。

 戦いであれば、勝ったものは勝者である。負けた者は敗者だ。選挙でもそうしたところはあるが、ちがいもある。選挙で勝った者はたんなる代表者だ。国民の意思を代理する者にすぎない。選挙で勝って選ばれたとはいっても、国民の意思とぴったりと合っているのではないだろう。嘘やごまかしが行なわれるのは避けられない。

 選挙という戦いに勝って、選ばれたのだから、与党による政権のやることは正しいのだろうか。そこについては切り分けられるものだ。選挙に勝って選ばれたことを根拠にして、政権が必然として正しいことを行なうとは必ずしも見なせない。歴史においては、ドイツのアドルフ・ヒトラーによるナチスの政権は選挙で国民から選ばれたが、そうだからといって正しいことをしたわけではないとふり返られる。選挙に勝って選ばれた者による政権が、正しいことをするとは限らないことを示している。

 政権についている者は、たとえ選挙に勝ったからといって、まったくまちがいをおかさないのではない。たとえ選挙に勝って政権についているからといって、完ぺきな合理性を持っていることにはならない。合理性の限界がつきまとう。政権が行なうことが確実に正しいという保証はない。

 政権をになう者がまちがったことを進めるのは、一つの文脈(仮定)としてとれるものだ。その文脈を絶対化するのではないにせよ、無いのではなくあるものだとするようにして、権力チェックをしっかりととって監視することがいる。それがないがしろになると、政権がやりたい放題になって、めちゃくちゃになってしまうことがおきるとまずいことだ。