近代の国家の司法制度というのは、同じようなことを目的としているのだから、それにたいするじっさいのあり方や手段などについてを比較することに意味はあるのではないか

 日産自動車の元会長であるカルロス・ゴーン氏をとりしらべる。そのさいの日本のやり方に、海外から批判が寄せられている。日本の法相はこれについて反論をしている。それぞれの国の司法制度にはちがいがあるので、一つひとつの相違点に目を向けて単純に比較することは適していない、と言う。

 たしかに、法相が言うように、それぞれの国の司法制度にはちがいがあるのだろう。しかし、そうだからといって、そこから、ちがいを比べるのは適していない、とは言えそうにない。どこの国もみんな同じ司法制度なのであれば、比べてもあまり意味はないが、ちがいがあるのだからよし悪しを比べるのはよいのではないか。

 一つひとつの相違点に目を向けて単純に比較するのはおかしいということを法相は言う。この言い分はうのみにすることはできづらい。というのも、それぞれの国とか、それぞれの国の司法制度というのは、抽象(普遍)のものであって、そこには共通点があるのではないだろうか。だから批判が成り立つ。同じ近代の国民国家だというのがある。

 どういうことを元(理念)にして、どういう制度にするのかや、どういうやり方にするのかは、宗教などの超越のものを持ち出すのでない限りは、かなりの程度において共通するものだろう。世俗における抽象(普遍)の考え方や概念としては同じようなものがとられている。世俗の理念として何をよしとするのかにおいても、同じようなものがとられる。おもに、日本が近代化するにあたって、日本が外(海外)からとり入れてきたものだ。じっさいの具体の形としては、同じところとちがうところがある。同じところとちがうところを比べることができる。

 ゴーン氏がいる拘置所では、冬はろくに暖房が効かなくて寒いそうだ。それで、以前に拘置所にいた元学園の園長夫妻は、ゴーン氏にフリースなどを差し入れたという。経験者ならではのものだ。

 拘置所で冬に寒い思いをするとしても、ゴーン氏は悪いことをしたのだから、それでよいではないか、というのがある。これははたしてふさわしいものだろうか。ゴーン氏が悪いことをしたのなら、確かに冬に寒い思いをするということで、応報によるつり合いがとれているというのはあるかもしれない。悪いことをやったことが決まったのならそうだが、まだそれをとりしらべている途中なので、そうと決まっているのではない。

 悪いことをしたのだとたしかに決まっているのではなくて、えん罪のおそれがなくはない。悪いか悪くないかがまだわからない。そうであるのだとすれば、有罪推定で見るのではなくて、無罪推定の原則で見るのがいる。それをもとにしてとりしらべが行なわれるようであればよいが、日本ではそうはなっていないというのなら、それに批判が投げかけられるのはおかしいこととは言えそうにない。

 ゴーン氏が悪いことをやったのであれば、それを裁く。罰する。こらしめる。そういう正義はある。その一つの正義だけではなくて、それとは別のものもある。とりしらべるさいには、とりしらべられる人(たとえばゴーン氏)がじっさいには無罪であることがまったくゼロではない。無罪であるかもしれない人(民間人)を、まちがいなく罪があるとは決めつけないようにする、という正義がある。これが十分にとれていないのだとすれば、それにたいする批判が成り立つ。

 日本ということからいったん離れられるとすると、ある国で、のぞましくないとりしらべのやり方が行なわれているのであれば、それは改められたほうがよいというのが言える。そのある国というところに日本を当てはめてみるのはどうだろうか。法相が言うように、日本のやり方とほかの国のを比べるのが適していないというのではなくて、日本で適していないとりしらべのやり方が行なわれているのなら、それを変えるのがあってよいし、日本の適していないやり方に海外から批判が投げかけられるのは、適していないことだとは言えそうにない。

 参照文献 『裁判官の人情お言葉集』『裁判官の爆笑お言葉集』長嶺超輝