批判は消極のものだが、その消極の中における積極性(マイナスの中のプラス)をもつのが中にはある

 ある表現にたいして、批判を行なう。そうして批判をするくらいなら、(批判する対象である)表現を上回るようなものを自分であらわせばよい。批判を投げかけるくらいなら、自分で表現したらよいというのだ。

 たしかに、批判を投げかけるのではなくて、自分でよりよいものをあらわすのがよいというのは行なわれてよいものである。とはいえ、批判を投げかけるくらいなら、自分で表現をしたり、自分でものごとを改める行動をじかに行なったりするほうがよいのかといえば、必ずしもそうとは見なせそうにない。

 批判をするくらいなら、自分でよりよい表現をしたり、自分で行動をしたりするほうがよいというのは、前提条件としてそこまで確かなものとは言いがたい。批判というものの中には、その範ちゅう(集合)において、さまざまな価値を持つものがある。なので、批判ということを前提条件にして、すべてをひとまとめにして、それをするよりも自分で表現をしたり行動をしたりするほうがよい、とはいちがいには言えなくなってくる。

 私のことがらであれば、批判を受けとめなくてもよいことがあるけど、公のことがらであれば、批判を受けとめることがあったほうが有益だ。公のことがらにおいて、批判が投げかけられていても、それを受けとめることが不十分になっている現状がある。もっと批判が受けとめられて、それをとり入れるようにすれば、世の中が多少は改まることが見こめる。

 私のことがらは置いておくとして、公のことがらにおいてはとくに、批判を行なうのは自由なのがある。自由主義の文脈においてはそうだと見なせる。そのさい、批判とは言っても、たんなるあげ足とりだったり言いがかりだったりするのであれば、そこまでまともにとりあわなくてもよいものだろう。批判がまったく当たっていないとすれば、それもまたそこまで重んじなくてもよいものである。

 批判がなぜ投げかけられるのかといえば、何かよいところがあるからだとは言えそうにない。よいところがある(すべてがよいところである)のであれば批判を投げかけることはいらないのであって、悪いところがあるからこそそれを行なう。たとえ部分的にではあっても悪いところがあるから批判を投げかける。何らかの論拠(根拠)があって批判を投げかけるのであれば、たんなるあげ足とりや言いがかりとは必ずしも見なせそうにない。

 ほんのささいな小さな悪いところを見つけ出して、重箱の隅をつつくようにしてそこを批判するのであれば、それはあまりのぞましいことではないかもしれない。しかし、ほかによいところがあって、部分的に悪いところがあるとしても、その悪いところに批判を投げかけることに、それなりの必要性があるのであれば、批判は(ものによっては)許容されることがあってよいものだろう。

 すべてが丸ごと悪いというのではないとしても、全体のうちの部分であったとして、その部分(一つまたは複数)の悪いわけがあって、それで批判を投げかける。その必要性がそれなりに高い(低くない)のであれば、許容されて、受けとめられるほうが、(私のことがらは置いておいて)公のことがらにおいてはよい方にはたらく。逆に言うと、それがいまの首相による政権において行なわれていなくて、受けとめがほとんどなされていない。一方的な働きかけだけが虚偽意識(イデオロギー)として行なわれているために、世の中が多少はよくなることさえもできづらくなっている。

 批判というのは、手つづきとか過程によるものであるのがある。批判の手つづきや過程を経ないのであれば、効率はよいものの、適正なあり方にならないことがある。途中である、手つづきや過程において、他から投げかけられる批判を受けとめず、それを聞き入れるのをすっ飛ばして、ものごとを一方的におし進めて行く。それでうまく行くこともまったく無いでは無いかもしれない。

 可能性としては、ものごとを一方的におし進めることで、うまく行くこともまったく無いでは無いかもしれないが、効率を重んじてしまっているために、適正さを欠くことになりやすい。無批判というのは確証(肯定)だが、それにたいする反証(否定)としての批判がとられたほうが、認知の歪みを改めることになりやすいから有益だ。色んな声があるという点では、批判を受けとめられたほうが、修正的にものごとを進めて行けるし、必要なさいに待ったをかけやすい。