本の成功と失敗(たくさん本が売れたという量としては成功かもしれないが、質としては、まちがいがいくつもあって、緊張が高いという点で、失敗していると見られる)

 本を出す。そのさいに、事前において、できるだけ緊張(テンション)を減らすようにする。この減らすのは、編集や校正において行なわれるものだろう。編集や校正の中で、まちがいを見つけて行って、緊張を減らす。それで完成品までもって行く。

 ふつうの本であれば、完成品になってから売られるので、売った事後において緊張が高いということはあまりない。編集や校正を経て、完成品になってから売られているので、緊張がほとんど無いものになっている。

 売る前の事前における編集や校正がずさんであれば、緊張が高いまま本が売られることになる。本を売った事後において、本の緊張が高いままとなっているので、そこを批判されることになる。事後において少なからぬ批判がおきるのは、本の緊張が高いことをあらわす。

 緊張が高い本というのは基本としてあってはならないのだから、すぐに売るのをやめるのならおきる害は少ない。しかし、緊張が高いままにそれ以後も売りつづけるのであれば、緊張が高い本が人手にわたることになる。理想としては、緊張がまったくないか、ほんの少しの本が人手に行きわたらないとならない。理想と現実がかけ離れていれば、問題がおきていることをあらわす。

 緊張が高いままに本を売って、それを売りつづける中で、途中でその緊張を少しは減らして行く。本の内容のまちがいを修正する。おもて立って、みんなにわかるように修正するのならまだしも、こそこそと陰に隠れて修正するのであれば、緊張が減ることにはなりづらい。

 緊張が高いままに本を売って、それで批判がおきたのであれば、そもそも何で緊張が高いままなのにもかかわらず本として売ってしまったのかを改めて見ることがいる。緊張が高いというのは、まちがいがいくつもあることだから、まちがいがいくつもあるような本を売ったのはなぜなのかを改めて見るようにしたい。

 すでに売った本の中にまちがいがいくつもあるという現象にたいして、場当たり的にまちがいを少しずつ直すのであれば、表面の現象に手を打っていることにしかなっていない。表面の現象ではなくて、原因にまでさかのぼって、そこを見るようにしないと、本質の手だてを打つことにはならない。

 売った本の中にいくつもまちがいがあるのは、その本の緊張が高いことだが、その表面の現象にたいして手を打つだけでは十分ではない。しかもその手を打つのがおもて立ってではなくて陰でこそこそ行なわれるのはいただけない。そういった手を打つのは、補正しているようでいて、かえって不正(まちがい)を補強していることになりかねない。

 本の話とはちがってしまうが、制度なんかでも、その制度がつくられた趣旨がおかしいのであれば、その制度がかかえるまずさにたいして、表面の現象を手直しするのでは十分ではない。その制度のかかえるまずさを何とかするために、表面の現象に手を打つのではなくて、その制度の根本の趣旨にまで立ち返って、根本から見直すことがいる。もし制度の根本の趣旨がおかしいのであれば、浅いところにある表面の現象に手を打っても、焼け石に水になりかねない。