原子力発電への信頼(コミットメント)と不信(ディタッチメント)

 原子力発電にたよるのをやめる。そこから脱する。政治の左派か右派かは関係のないことだ。小泉純一郎元首相はそう言っている。

 原発によるのか、それともよらないようにするのか。公共政策としてどちらがのぞましいのだろうか。これは条件によってちがってくるものだろう。条件つきで原発によるのがよいとできるだろうし、原発によらないのがよいともできる。

 原発によるのがよいというのでは、原発を動かすのをやめると人が死ぬというのがある。原発で発電する電力がなくなったら、それによって死ぬ人が出てくるというのだ。たしかにそういったおそれはあるのかもしれない。

 原発を動かすのをよしとする。原発の危険性はほとんどない。安全神話がこれまでにとられてきたが、それが揺らいでいるのがある。原発安全神話というのは、原発に未知なところはないというものだが、それには無理があって、原発に未知なところがあるとするのが一つには成り立つ。

 原発に未知のところがないのであれば、確実なものとできるけど、そうではなくて不確実なところがおきてきている。不確実なところへの備えが足りていない。かりに原発にたよるのをよしとするにしても、原発にたよることに緊張がおきているのがある。その緊張を解消することは欠かせない。緊張を解消するのは、批判に答えることである。

 原発を動かすのをやめれば、人が死ぬことになるというのはあるのかもしれないが、そうかといって、これまで原発を動かしつづけてきたという既成事実をもってしてよしとしてしまってよいものだろうか。

 原発が危険かどうかや、安全かどうかというのは、専門の話ではあるだろうけど、固定したものではなくて、参照点を色々と動かせるものだとすると、すごく危険というのからすごく安全というのまで、色々な見かたをとることができる。

 原発の危険性はあまりなく、安全だ、というのは、自明なこととしてしまってよいのだろうか。その自明性の厚い殻を破ってみることができる。もし原発が本当に危険性があまりなくて安全で有益そのものなのであれば、安全性について疑問視をしたところで、安全性が根底から揺らぐものではないだろう。

 専門によるのではなくて素人によるのにすぎないものではあるが、原発の危険性はあまりなくて安全だというのについて、それを疑問視するのを、勉強が足りていないといった欠如モデルで見るのではなく、反欠如モデルによることも必要だ。原発の安全性というのが教条(ドグマ)化や権威化しているのだとすれば、それは危険なことだ。

 演繹として、原発は危険ではなく安全だから、まちがいなくそれにたよりつづけたほうがよい、とは言えそうにない。演繹であれば絶対論となるが、帰納として相対論によるものとするほうが現実的である。帰納の相対論であれば、原発は危険ではなくまちがいなく安全だとは言えず、原発が抱える不都合なところや負のところを見ることがいる。

 原発の危険性はあまりなくて安全だというのは仮説であって、その仮説がどこまで信ぴょう性のあるものなのかは慎重に見て行かないとならない。確証(肯定)だけではなくて反証(否定)でも見ることがいる。